Quantcast
Channel: Tribune~弁護士 鈴木成公の婆娑羅ブログ~
Viewing all 515 articles
Browse latest View live

コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー⑨完結編(トラブルメーカーへのアプローチ)

$
0
0

 今回は、いよいよリコラさんとの『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー』の完結編です。

 

 前回私は、トラブルメーカーが、自分から変わろうと思わない限り、外在的アプローチ(他者や社会全体が、トラブルメーカーを改善させようとすること)は無力であると論じながら、それでもなお、私は外在的アプローチを模索したいと、もがいていると述べました。

 

 そして、日本人の国民性の1つと言われる「恥の文化」における恥の概念が、その手がかりの1つになると考えていると述べました。

 

 これについて、掘り下げていきたいと思います。

 

◇社会化総論

 

 社会学で、「社会化」という概念があります。

 

 社会化とは、人が自分の所属する社会や集団、またはこれから所属しようとしている社会や集団に共有されている社会規範、価値観、考え方、感じ方、行動パターンなどの流儀作法を学習し、獲得していくプロセスをいいます。

 

◇第一次的社会化と第二次的社会化

 

 その社会化の段階には、第一次的社会化第二次的社会化があります。

 

 第一次的社会化は、人が生まれてから成長する過程で、社会規範、生活習慣、言語など、その社会全体に共通で、かつ基本的な事柄を学習することをいいます。

 

 社会化の主体は、子供で、社会化を担うのは、家族地域社会保育園幼稚園学校などで、この第一次的社会化で、社会性を身につけていきます。

 

 これに対し、第二次的社会化は、ある集団に固有の、その集団内で共通する規範や価値観、行動パターンを学習することをいいます。

 

 これは、例えば学校であれば校風、会社であれば社風などがそれに当たります。

 

 その集団に新規参入する者は、その集団に固有の作法や気風を身につけることで、初めて一人前のメンバーとして認められることになります。

 

 このような意味では、トラブルメーカーは、第一次的社会化に失敗した人ということもいえます。

 

◇社会化と言語

 

 かなり前の記事になりますが、私は『沈思黙考Vol.2~言語学と犯罪論の邂逅②(言語の役割)』(http://ameblo.jp/tribune-ns0731/entry-11253816546.html)の中で、言語は社会を把握するための道具で、それを投げかけられることによって、そこに織り込まれた世界観をも承継していくというお話をさせていただきました。

 

 人は生まれてから、家族、地域社会、保育園、幼稚園、学校の中で、コミュニケーションすることで、言語を受容し、その言語に織り込まれた世界観を享受し続けています。

 

 人は、社会に共通のルールを直接明示的に教えられなくても、社会を把握する道具である言語を受容することで、社会のルール等を知っていくので、その言語が、社会化のツールとして果たしている役割は、実は大きいと私は考えています。

 

 例えば、両親が子供を思いやり溢れる子供に育てようと、思いやりを持つことを一生懸命教えたとしても、両親が思いやりのない人だった場合、その両親の発する言語には、それが織り込まれた言語になってしまっているため、躾(しつけ)をしているとき以外の日常会話の中で、子供は両親の思いやりのない部分を自然と学び、両親と似た価値観に育っていってしまうといった例が挙げられます。

 

 そうすると、家族、地域社会、学校で、ある間違った価値観を持った人たちが、社会化を担う側であった場合、その間違った価値観は、世代を超えて再生産され続けていくわけです。

 

◇トラブルメーカーを生む土壌

 

 では、トラブルメーカーが生まれる土壌として、何が考えられるでしょうかはてなマーク

 

 これを全て論じると、膨大な論文になってしまうので、今回は、私がトラブルメーカーを生む土壌と考えているものの1つに限定して、お話ししたいと思います。

 

 私は、行き過ぎた権利意識と、自由の履き違えが、トラブルメーカーを生む土壌の1つとなっていると考えています。

 

 

◇行き過ぎた権利意識と自由の履き違え

 

 私は、義務教育の至る場面で、「権利は絶対である。」という概念を、教えられてきました。

 

 この権利の絶対性を支える理論に、天賦人権説(てんぷじんけんせつ)というものがあります。

 

 天賦人権説とは、人は生まれながらにして、自由で平等で、幸福を追求する権利があるという考え方です。

 

 これは、絶対王政の時代に、王であっても、侵害してはならない国民の権利があるということを王に認めさせる理論として編み出されたという側面が大きいと私は考えています。

 

 これは、絶対王政が打倒された現在でも、国家が侵害してはならない国民の権利という意味で、妥当性のある理論です。

 

 しかし、ここで問題なのは、その人権、権利の絶対性を、対国家権力ではなく、私人(国家や公共的な立場を離れた個人のことで、自然人と法人を含む。)との間においても主張することが妥当だという誤解が通ってしまっていることです。

 

 憲法の人権保障の規定は、国家が人権を侵害してはいけないことを国家に対して求めているもので、私人の間で、相手に対して、「私の権利は絶対だから尊重しろ」という権利まで憲法は保障していないのです。

 

 ここで、AさんとBさんがお互いに「私の権利は絶対だから、私の権利を絶対に侵害するな。」と言い合ったら、どうなるでしょうかはてなマーク

 

 AさんとBさんが主張している権利が、両立する権利なら問題はありませんが、通常は衝突します。

 

 お互い、表現の自由を無制限で行使し合えば、いつかは罵り合いになります。

 

 しかし、現代社会では、なかなかそうはなりません。

 それは何故でしょうかはてなマーク

 

 

◇権利、自由の衝突のストッパー

 

 もちろん刑法によって名誉毀損罪、侮辱罪が規定されており、民法でも、不法行為(名誉毀損)に基づく慰謝料請求が認められているというのもありますが、それだけでなく、社会においては、通常は何かしらのストッパーが働きます。

 

 そのストッパーは、法律以外の規範ルールマナーなど、いろいろあり、文化の違いによって、その現れ方も違います。

 

 日本では、恥の文化は、そのストッパーの1つとして、機能してきました。

 

 前回述べたように、ここにおける恥は、「人様に迷惑をかけること」、「人様に嫌な思いをさせること」に対する恥を意味しています。

 

 

◇恥の文化の破壊

 

 しかし、そのような恥の文化も、徐々に希薄になりつつあります。

 

 恥の文化が希薄になった原因は、いくつかあると思います。

 

 1つは、前述のように、本来は国家に対して要求すべき「権利の絶対性」が独り歩きし、私人との間においても、権利は絶対であるという間違った観念が醸成されてしまったことです。

 

 「人様に迷惑をかけないで。」という親に対し、「私は私。」、「私の自由でしょはてなマーク」という考え方は、まさにその一例です。

 

 もう1つは、社会公共のために、多少の我慢も必要であるという考えを、個を殺して国家に滅私奉公することと同視し、忌避してきたことです。

 

 公共心という概念が、責任を取りたくない人たち、自分だけがかわいい人たちによって、何となく雰囲気だけで、無批判に、非論理的に、軍国主義と結び付けたり個性化の時代から逆行すると断罪したりして、抹殺されてきたのです。

 

 このような中で、自由、権利の衝突のストッパーであった恥の文化は希薄になり、義務を履行しないで権利だけを主張する人、責任を果たさずに自由だけを主張する人が拡大再生産され、昔に比べて、そういう人たちが、何の気兼ねもなく、大手を振って我儘を言いたい放題言えるような社会になってしまったのです。

 

 

 このような社会において、一人だけ、そのようなトラブルメーカーに対して、正義感を持って立ち向かい、注意をしたら、どうなるでしょうかはてなマーク

 

 完全にトラブルメーカーの標的、餌食になります。

 

 しかし、社会全体が、恥の文化を取り戻し、多くの人が、トラブルメーカーの行いに嫌悪感を示すだけでなく、社会全体でトラブルメーカーを注意する体制ができたらどうでしょうかはてなマーク

 

 それはまさに、私が、「トラブルメーカーが、自分と向き合い、成長したい、トラブルメーカーから脱却したいと思うきっかけには、何があるのでしょうかはてなマークと問題提起したのに対して、リコラさんが挙げた「孤独に耐えきれなくなって、トラブルメーカーが自ら変わろうと思う」きっかけになると思いませんかはてなマーク

 

 

  それだけでなく、社会全体が恥の文化を取り戻し、公共心が醸成されれば、義務を履行せずに権利を主張したり、責任を果たさずに自由だけを主張したりということの正当性が大幅に揺らぐので、トラブルメーカー自体が生まれにくい世の中になっていきます。

 

 私は、トラブルメーカーを外在的に変えることは難しいと述べましたが、トラブルメーカー自体を発生させにくい社会にしていくという外在的なアプローチであれば、可能であると考えています。

 

 そのためにこそ、トラブルメーカーではない私たちができることは、公共心を持って、ほんの少しでも、社会公共のために最善は何かを考える癖をつけることではないでしょうかはてなマーク

 

 このようなことを言うと、「偽善だ。」という間違った非難をする人がいますが、全くの的外れです。

 

 社会公共のための最善を考えて行動することで、社会が良くなり、結果的に、自分の住みやすい社会になるので、結局は自分のためになるのです。

 私は、自分を犠牲にして、他者のために生きよなどと独善的な博愛を謳うつもりは全くありません。

 

 自分が幸せになりたいから、自分の愛する人たちを幸せにしたいから、社会公共の利益を考えたいということです。

 

 だから、偽善ではなく、むしろ、利己的だからこそ、社会公共の利益を求めているのです。

 

 

◇最後に

 

  さて、今回、せっかく憲法の人権保障のお話をさせていただきましたので、最後に、今一度、憲法のお話をさせていただきたいと思います。

 

 憲法の人権を保障する規定はいろいろあるのですが、私はその中で、特に憲法第12条は、重要な条項の1つだと考えています。

 

 日本国憲法第12条は、次のように規定しています。

 

《憲法第12条》

 

 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ

 

 

 社会全体が、この憲法の理念を共有できたら、きっと、トラブルメーカーが生まれにくい社会になっていくのではないでしょうかはてなマーク

 

 

◇次回予告

 

 今回が、『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー』の完結編となりますが、次回は、リコラさんと共に、今回の『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー』の感想をアップさせていただきたいと思いますニコニコ

 

 感想とはいえ、今回のコラボ企画を通じて、お互いいろいろ考えたこともあるかと思いますので、私もリコラさんも、必ずしも一話完結となるとは限りません。

 流れに身をゆだねて、思いつくままに感想を述べたいと思いますニコニコ

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 Facebookユーザーの方は、Facebookの「いいね」を押していただけると嬉しいです
 また、『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「弁護士」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓            ↓↓↓ 

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ   ペタしてね
にほんブログ村


コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー⑩(エピローグ~執筆後記)

$
0
0

 前回で、コラボ企画『Vol.5~トラブルメーカー』は完結となりましたので、今回は、コラボ企画の相方である家族問題カウンセラーリコラさん(http://ameblo.jp/re-cora/)と共に、コラボ企画を終えた感想をそれぞれアップさせていただきます。

 

 リコラさんの感想は、以下からお読みください。

 

《リコラさんの記事》

 

 『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー~書き終えての感想~①

http://ameblo.jp/re-cora/entry-12295139047.html

 

コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー~書き終えての感想②~

http://ameblo.jp/re-cora/entry-12295140197.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----re-cora_12295140197

 

 

◇コラボ企画の醍醐味

 

 いつもコラボ企画のときは、どんな方向に向かうのか、最初から方向性も定めずに、スタートしていくので、いつもワクワクしながら執筆しているのですが、今回は、約3年ぶりのコラボ企画となったので、ワクワク感と同時に、薄暗闇の中を進むような若干の不安もありましたが、案ずるよりも生むが易しで、いざ始まってみると、いつもどおり、潜在意識に眠っていたいろいろなものが目を覚ましました。

 

 お互い、職業も、専門性も異なる二人が、同じテーマについて論じることで、お互いが補完し合い、良いシナジー効果が生まれました。

 

 以下、今回のコラボ企画で、私が気付くことができたことのうち、大きな3つについて、コメントしたいと思います。

 

 ◆トラブルメーカーの問題性

 

 私は、トラブルメーカーの何が問題なのか、明示しないまま、論を進めてきました。

 

 それは、トラブルメーカーだというだけで、それ自体が問題であることが滲み出ているので、そこを言語化するのを、怠ってしまいました。

 

 リコラさんが、トラブルメーカーの問題性について、他者のエネルギーを奪う点にあると論じているのを見て、私は、トラブルメーカーが問題であることを、所与の前提として論じてしまっていたと気付いたのです。

 

 実は、社会問題は、その何が問題なのかを論じた時点で、解決策は半分回答が出ているのも同じなのです。

 

 私は、普段自分が無意識に行ってきたその思考の過程を、今回、うかつにも端折ってしまっていたのですが、それに気づけたことは、大きな収穫でした。

 

 ◆トラブルメーカーの内面

 

  トラブルメーカーの問題性と同様、トラブルメーカーの内面の状態を、うまく言い表せる表現が見つからずにいました。

 

 それに対し、リコラさんが、「怒りの仮面の根底にある悲しみのさらに奥にある恥」と表現していました。

 

 今まで一生懸命描いて完成させた絵に、どんなタイトルを付けても、帯に短し襷に長しであったところに、リコラさんのその表現が、私が言いたかった全てを過不足なく言い当ててくださった感じです。

 

 これは、今回の収穫の1つでした。

 

 ◆自己愛性パーソナリティ≠自己愛性パーソナリティ障害

 

 私は、トラブルメーカーの特徴が、人格障害(パーソナリティ障害)と重なる部分が大きいと論じていたのですが、リコラさんが、自己愛性パーソナリティ自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)区別を論じたことで、私もいろいろと考えることができました。

 

 リコラさんと川越で飲んだ際に、その意図を伺ったところ、「障害のレベルに至ったら、精神科に通院するしかないけど、障害のレベルに至っていない人は、医師の治療によらずに改善できる余地があるから、私たちが論じる意味がある。」という趣旨のことをおっしゃいました。

 

 確かに、障害のレベルに至っている場合と、至っていない場合で、対処法に強弱をつける必要はあるので、区別の意味はあると私も思ったのですが、そこから私もいろいろ考えていたところ、学生時代に読んだ『精神病を知る本』(別冊宝島)を思い出しました。

 

 「精神医学は、『精神病とはわけのわからない精神の病いであるというたった一つの告白』をしているにすぎないように見える」

 

 精神医学は、わけのわからないものを、「病気」だと呼ぶことで、平均的な人たちが納得するツールを提供しているだけだったのです。

 

 

 そうすると、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)も、病気とは名ばかりなのではないかということに気付いたのです。

 

 そこから、結局、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)も、自己愛性パーソナリティの一種で、ほんの少しの程度の違いで、軸足はあくまで自己愛性パーソナリティにあるんだという考えに至ったのです。

 

 この考え方は、強度の被害者意識をベースに持つトラブルメーカーが、「私は病気なんだから、大切に扱ってよ。」という言い訳をするのを遮断する意味もあるので、非常に有意義な考え方だと思いました。

 

 これも、リコラさんとのコラボの中で、私が得ることができた収穫です。

 

 

◇公共心

 

 さて、今回のコラボ企画で、私は、実は自分のライフワークを前面に押し出すことができました。

 

 これまでのコラボ企画でも、それをある程度出していたのですが、今回は、横道にそれつつ、その自分のライフワークに結び付けるような伏線を張りつつ、目的地に到達できた感がありました。

 

 私がこのブログを通じて、よく述べているように、私は、正直者が馬鹿を見ない社会の実現のために、一度政治の世界に足を踏み入れ、その後、弁護士になって、違う分野から、その夢を実現しようとしています。

 

 その正直者が馬鹿を見ない社会のために必要な要素の1つが、今回、最後に提示した「公共心」です。

 

 トラブルメーカーの問題性は、いくつかありますが、リコラさんが挙げてくださった「他者のエネルギーを無駄に奪うこと」の他に、私は、トラブルメーカーが排除されずに大手を振って歩けるような社会は、「正直者が馬鹿を見る社会」だという点が、大問題だと思っています。

 

 

 正直者が馬鹿を見る社会は、正直者は損をするので、皆がズルをし始めて、社会は不活性化します。

 

 そんな社会では、誰も努力しようと思いません。

 自分だけが楽をして、自分だけが良い思いをすれば、それで満足だというダメ人間を大量生産してしまいます。

 

 私は、そんな社会を絶対に看過できません。

 

 今回、その私の思いを、トラブルメーカーについて論じながら、ストレートに出すことができました。

 

 私が学生時代から好きな言葉の1つに、「ノーブリスオブリージュ」(noblesse oblige)という言葉があります。

 日本語では、「高貴なる者の義務」と言います。

 

 社会的地位の高い人は、社会公共の利益を追求する義務があり、それを履行できる人は、高貴であるということを言っているのですが、私は、その観念を、社会全体で共有したいと思っています。

 

 ちなみに、「社会的地位が高い人」とは、職業的な地位や年収が高いことを言っているわけではありません。

 

 社会全体の利益を考えられる人は、自分のことしか考えられない人に比べ、社会的地位が高いという趣旨なのです。

 

 これは、リコラさんが挙げた、人の精神的成長段階の三次元的精神(最終段階)と同じものです。

 

 

 全ての人が、このノーブリスオブリージュを持てたら、そんな素敵な社会はないと思います。

 

 それは、本当に、夢のまた夢かもしれませんが、怯まず諦めず、著しく困難な壁に、常に挑戦し続けていきたいと思っています。

 

 このコラボ企画も、その思いを、心ある皆さんに共有していただくためのツールの1つだと思っています。

 

 今後も、このブログ、コラボ企画を読んでくださる志高き皆さんと一緒に、社会全体の成長段階を1ステージ押し上げていくぐらいの気持ちで、想いを綴っていきたいと思います。

 

 

◇最後に

 

 今回、3年ぶりのコラボ企画でしたが、楽しみながら、いろいろな思いを出すことができました。

 

 次回は、どんなテーマにしようか、全くのノーアイデアですが、今回と同じように、リコラさんと飲みながら、ふとした会話から、新しいテーマが、天から降って来るかもしれません

 

 それが降って来た時、そのテーマは、世に出たがっているのです。

 

 それがいつになるのか、私には全く予測もできませんが、それが降りてきたときは、また懲りずにお読みいただきたいと思います。 

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 

 Facebookユーザーの方は、Facebookの「いいね」を押していただけると嬉しいです
 また、『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「弁護士」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓            ↓↓↓ 

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ   ペタしてね
にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016②(豊受大神宮⇒女鬼峠)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行初日(平成28年5月29日(金))、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の参拝を終えた私たちは、熊野古道伊勢路のルートから少し外れて、月夜見宮を参拝することにしました。

 

◇月夜見宮


(月夜見宮(豊受大神宮の別宮)/鳥居)

 

 

 月夜見宮(つきよみのみや)は、伊勢市宮後に鎮座する豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の別宮ですが、伊勢市中村町には、同じ月讀命(つくよみのみこと)を主祭神として祀る皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮「月讀宮」も鎮座しています。

 月讀命は、「つくよみのみこと」と読むのが一般的ですが、月夜見宮及び月讀宮では、「つきよみのみこと」と読みます。

 

 月夜見宮の主祭神の月讀命は、『古事記』によれば、黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐大神(いざなぎのおおみかみ)が禊をした際に、右目から生まれたとされています。

 

 この時に左目から生まれたのが、通説ではとされている天照大神で、鼻から生まれたのがである素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、この三柱の神を「三貴神」と呼びます。

 

(月夜見宮/社殿)

 

 ところで、月讀命は、謎の多い神で、後世では、一般的に男神だと考えられていますが、『古事記』、『日本書紀』では、性別は明らかにされていません。

 

 世界各地の神話では、太陽の神月の神は一対で、通常は太陽の神が男神で、月の神は女神とされていることが多いとされています。

 実は、天照大神についても、『古事記』では性別は明らかにされておらず、『日本書紀』の中で、素戔嗚尊が「」と呼んだとの記載があり、女神であったと考えられているに過ぎません。

 

 このようなことから、天照大神は男神で、月讀命が女神であると考える研究者もいます。

 

 この辺りは、興味の尽きないところなので、さらにいろいろな文献を読んで、考察していきたいと思っています。

 

◇田丸城跡

 

 月夜見宮の参拝を終えた私たちは、月夜見宮の近くでラーメンを食べようと思ったのですが、入ろうと思ったラーメン屋さんは満席で、数人の行列ができていたので、熊野古道伊勢路のルートに戻り、途中で見つけた店に入ることにして、歩を進めていきました。

 

 しかし、豊受大神宮から宮川に架かる渡会橋に向かうまでの間、飲食店がなかったので、渡会橋に通じる国道37号に出てみましたが、そこにも飲食店はありませんでした。

 

 

(渡会橋)

 

 熊野古道伊勢路は、渡会橋を渡ったところにあるスポーツクラブの先を左折するのですが、そのルート沿いに飲食店がありそうな気配がなく、逆に、国道37号沿いの先に、フランチャイズの飲食店の看板が多く立ち並んでいるのが見えたので、少しルートを外れ、国道37号沿いを歩き、見付けた中華レストラン『味の來々軒』に入りました。

 

 この日は、栃原(とちはら)まで歩く予定だったのですが、途中の女鬼峠(めきとうげ)を除けば、ほぼ平坦な道だったので、私はチャーハンセット生ビールを注文しました。

 

 食事を終えた私たちは、渡会橋のスポーツジムのところまで戻り、そこから熊野古道伊勢路を再び歩き始めました。

 

 熊野古道伊勢路には、「熊野街道 伊勢街道」と書かれた道標が至る所に立っており、熊野古道伊勢路の起点である皇大神宮までの道のりが「伊勢まで〇〇km」、熊野古道伊勢路の終点である熊野速玉大社までの道のりが「新宮まで〇〇km」と書かれています。 

 

(伊勢路道標)

 

 渡会橋の袂にあったスポーツクラブの先を曲がってしばらくしたところにあった道標には、「新宮まで162km」と書かれていました。

 

 この日も含めて5日間で残り162kmというと、さほど大変ではないように思えるのですが、この162kmの中には、標高627mの八鬼山(やきやま)を始め、標高300m級の峠をいくつも越えていかなければならないので、実はかなり大変な道のりでした。

 

 しかし、それに気づくのは、まだ先のお話。

 

 

 しばらく長閑な住宅街を通る旧街道を歩くと、菱川という小さな川に架かる和倉橋があり、そこを渡ってしばらくすると、田園地帯が広がっています。

 

 

(城田付近の田園地帯)

 

 田園地帯を過ぎ、汁谷川という小さな川に架かる汁谷橋を渡ると、右手に城田小学校があります。

 

 そこからさらに道なりに歩き、JR参宮線の踏切を越え、しばらく歩くと、外城田川に架かる外城田橋があります。

 

 外城田橋を渡ると、多少道が入り組んでいるのですが、地図に従って歩いていくと、ミエマン醤油西村商店が有り、その先に紀州街道の碑が立っているので、そこを左折すると、交差点にぶつかります。

 

 熊野古道伊勢路は、この交差点を直進しているのですが、右折すると、田丸城跡があるので、少し寄り道をすることにしました。

 

(田丸城跡)

 

 田丸城は、南北朝時代に南朝方の北畠親房(きたばたけちかふさ)、北畠顕信(きたばたけあけのぶ)父子によって築かれたとされますが、康永元年(1342年)、足利尊氏によって落城しています。

 

 その後、城主はめまぐるしく変わりますが、駿府藩藩主であった徳川頼宣が紀州に転封となり、徳川御三家の1つである紀州徳川家が成立すると、御附家老であった遠江久野城主久野宗成も、付随となり、そのまま紀州に移り、徳川頼宣により、田丸城城主に任じられ、久野家が明治維新まで田丸城城主を務めました。

 

 もっとも、久野家当主は、代々紀州藩家老として和歌山城下に居を構え、田丸城には一族の者を城代として田丸城の政務に当たらせていました。

 

 明治維新後、田丸城の建造物は、ほとんど壊されたのですが、天守台や石垣、外堀、内堀、空堀などの遺構が現在も残されているので、城好きな私としては、田丸所跡をくまなく散策したかったところですが、田丸城跡に着いた時点で既に14時過ぎで、この後、栃原まで約16kmを歩かないと行けなかったので、先を急ぐことにしました。

 

◇女鬼峠

 

 田丸城跡から、熊野古道伊勢路のルートに戻り、少し歩き、JR参宮線の踏切を超えて、庚申堂を過ぎたところに、三郷川に架かる田丸大橋があります。

 

 前日までの荒天の影響で、三郷川は濁っていて、さらに強風も吹いていたのですが、その強風のせいで、この辺りでK井さんが帽子を紛失してしまいました。

 

 実は、今回の旅は、初日にK井さんがプリントアウトして持参した地図を紛失し、何日かして、私も、プリントアウトして持参した地図のうち、ちょうどその日に歩く部分の地図を紛失するなど、ハプニング続きでした。

 

 田丸大橋を渡り、しばらく歩くと、風が強くなり、しかも、完全な向かい風で、歩くスピードが一気に落ちました。

 

 それでも、この日のうちに栃原に着かないといけないという思いで、K井さんも私も、向かい風に向かって歩き続けました。

 

 サニーロードとの交差点の所に道標があり、その交差点を越えると、再び三郷川にぶつかり、そこに架かる竹之鼻橋の少し先に、接待地蔵尊が佇んでいます。

 

 

(接待地蔵尊)

 

 この接待地蔵尊は、その昔、土に埋もれてしまったことがあるそうですが、ある時、農民の夢枕に立ち、助け出されたという民話が残されているそうです。

 

 接待地蔵尊から20分ほど歩くと、東外城田神社に着きます。

 

(東外城田神社)

 

 この東外城田神社の近くで少し休憩し、再び歩き始めると、40分ほどで、西外城田神社の入口に着きました。

 

(西外城田神社)

 

 西外城田神社は、小高い丘の上にあるのですが、ここに着いた時点で既に15時40分だったので、参拝せずに、鳥居のところで手を合わせ、先を急ぐことにしました。

 

 実は、事前に、K井さんから、熊野古道伊勢路を歩いた福元ひろこ氏の『歩く旅の本 伊勢→熊野』を借りて読んでいたのですが、これから通る女鬼峠について、「薄気味悪い」、「早く通り抜けたい」、「一人で歩くのは怖い」といった記載があったので、日が落ち始める前に、女鬼峠を越えたいと思っていたこともあって、あまり寄り道をせずに先を急いでいたのです。

 

(『歩く旅の本 伊勢→熊野』/福元ひろこ著)

 

 西外城田神社の先は、しばらく県道119号線沿いを歩きますが、この辺りは田園地帯が続きます。

 

(女鬼峠手前の田園地帯)

 

 田園地帯の先の分岐を、成川大師堂のある右側の道に入り、蔵の多い集落を抜け、再び県道119号線にぶつかったところで、遂に女鬼峠の看板が見えました。

 

(女鬼峠/看板)

 

◇次回予告

 

 ここからいよいよ女鬼峠を登り始めるのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓  

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ    ペタしてね    
にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016③(女鬼峠⇒栃原)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行初日(平成28年5月29日(金))、16時前にようやく女鬼峠(めきとうげ)の看板まで辿り着いた私たちは、女鬼峠へと向かいました。

 

◇女鬼峠

 

(女鬼峠/看板)

 

 県道119号線から看板の指示に従って少し歩くと、女鬼峠の入口に道標と熊野古道の幟が立っています。

 

(女鬼峠/入口)

 

 女鬼峠入口から15分ほどで、標高120mの女鬼峠に着きます。 

 

(女鬼峠からの眺望)

 

 女鬼峠を下ると、名号碑如意輪観音像があります。 

 

(女鬼峠/名号碑と如意輪観音像)

 

 ここまで歩いてきて、K井さんも私もふと思いました。

 福元ひろこ氏の書いた『歩く旅の本 伊勢→熊野』には、女鬼峠について、「薄気味悪い」、「早く通り抜けたい」、「一人で歩くのは怖い」といった記載があったのですが、そこまで怖い感じはしなかったのです。

 

 私たちは、昨年のゴールデンウィークに縦走した大嶺南奥駈道で、薄暗い中、もっと薄気味悪い道を何ヶ所も歩いてきていましたし、男性2人だったこともあって、さほど怖さを感じなかったというのもあるかもしれません。

 

 ただ、16時過ぎで、まだ夕暮れ前とは言え、木々が生い茂っていて、薄暗い感じはするので、夕暮れ時に1人で歩いたら、多少薄気味悪い感じはする場所かもしれません。

 

 そう思って、後で調べてみたら、実は、この女鬼峠のすぐ近くの山の上には、元々処刑場があったそうで、現在女鬼トンネルが通る県道119号線の旧道にある女鬼隧道(通称:旧女鬼トンネル。現在南側の入口は溶接で封鎖されており、通り抜け不可。)は、有名な心霊スポットとされているそうです。

 

 また、女鬼峠のある多気町には、人を食う鬼が住んでいたという伝説があり、地元では、女鬼峠に鬼が住んでいるとの信仰もあるそうです。

 

  そのようなことからすると、福元ひろこ氏が感じた「薄気味悪さ」は、あながち間違っていなかったのかもしれませんね。

 

◇栃原

 

 女鬼峠を越えた私たちは、この日の目的地である栃原に向けて更に歩を進めました。

 

 女鬼峠を下ってから、30分ほどで、柳原観音千福寺に着きます。

 

(柳原観音千福寺)

 

 柳原観音千福寺の参拝時間は16時までだそうで、着いたときは既に17時を回っていたため、残念ながら閉まっていました。

 

 この柳原観音千福寺から少し歩くと、文化2年(1805年)創業の元坂酒造があり、その先をしばらく歩くと、途中でバイパスに合流します。

 

 30分弱、バイパス沿いを歩き、途中の分岐のところで、左側の道を行けないといけなかったのですが、熊野古道の道標がなかったので、そのままバイパス沿いを歩いてしまいました。

 

 地図によると、途中、阿弥陀寺が見えるはずなのですが、それが見えなかったので、K井さんが、道を間違えたことに気づき、左折して、本来のルートに戻りました。

 

 初日のこの日は、栃原のどこかでテント泊をする予定だったので、途中、コンビニで夕食と翌朝の朝食、お酒などを買おうと思っていたのですが、昼食を終えてからここまでの間、コンビニは1軒もなく、かなり不安になっていました。 

 しかし、K井さんが道を間違えたことに気付いて、本来のルートに戻ったおかげで、その通り沿いのコンビニに辿り着くことができました。


 

 そこのコンビニの店員のおばさん(おそらく店主の奥様)が、私たちの格好を見て、私たちが熊野古道を歩いていることに気づき、「今日は岡島屋に泊まるんですかはてなマークと聞いたので、K井さんと私が、「いや、公園とか、神社の境内とか、どこか泊まれるところでテント泊しようと思っています。」と言ったところ、「この辺りの公園は、通報されて警察が来たりもするので、あまりお勧めはできないです。」とアドバイスしてくださいました。

 

 その後、そのおばさんに、この辺りで食事ができるところがないかを聞いたところ、いくつか教えてくださったのですが、熊野古道伊勢路のルート沿いにはないとのことでした。

 

 しかし、できればお店で食事をしたかったので、このコンビニで、寝る前に飲むお酒と、翌朝の朝食を買ってから、ルートを外れ、おばさんが教えてくれたお店に向かいました。

 

 新田の交差点を左折して国道42号を、下楠方面にしばらく歩くと、コンビニのおばさんが教えてくれた『うなぎ吉兆』がありました。

 

 私とK井さんは、生ビールと食事を注文。

 

(うなぎ吉兆)

 

 生ビールを運んできたおばさん(おそらく店主の奥様)が、私たちの格好を見て、「熊野古道歩いてるのはてなマーク今日、どこから来たのはてなマークと聞いてきたので、「今日は伊勢神宮から。」と言ったら、伊勢神宮からだとかなりの距離があるので、驚いていましたが、その後、コンビニのおばさんと同じように、「岡島屋に泊まるのはてなマークと聞いてきました。

 

 この辺りにある唯一の宿が旅館岡島屋なので、二人は、そのように聞いてきたようです。

 

 しかし、費用節約のためもあって、初日のこの日は、栃原のどこかでテント泊をする予定で、岡島屋の予約もしていませんでしたので、「この辺りで、泊まれそうなところにテント泊しようと思ってるんですが、公園はやめた方が良さそうなので。」と言って、テント泊できそうな場所をあれこれ話していたところ、そのおばさんが、「その場所なら、うちのお客さんだから、電話してみるはてなマークと言って、電話番号を教えてくださいました。

 

 そこで、その方に電話し、『うなぎ吉兆』のご紹介でお電話させていただいたこと、熊野古道伊勢路を歩いていることを伝え、施設の敷地内にテント泊させていただきたいとお願いしたところ、快く了解してくださいました。

 

 その後、K井さんと明日の行程などを確認しながら、もうしばらくお店でゆっくりしていると、私の携帯に着信がありました。

 

 折り返し掛けてみると、その施設の人で、私たちがもう施設に到着していると思い、施設の近くの自宅からわざわざ施設まで来てくださったようです。

 

 そこで、「もう少し、吉兆でゆっくりしてから、向かいます。」と伝えたところ、「今日、施設の部屋が空いてるから、その部屋に泊まって良い。布団などはないけど、座布団やストーブも自由に使って良いから。」とのことでした。

 

 この日は、4月29日でしたが、例年よりも気温が低く、夜になるとけっこう寒かったので、私たちは、そのお言葉に甘えて、泊まらせていただきました。

 

 私たちは、会計を済ませ、『うなぎ吉兆』のおばさんにお礼を述べ、その施設へと向かうと、その施設の人が、施設の別の建物で私たちを待ってくださっていて、この日泊まらせていただける部屋へと案内してくださいました。

 

 私たちは、テント泊用にシュラフ(寝袋)を持参していたので、シュラフの下に座布団を敷いて寝たのですが、非常に快適でした。

 

 この日、外でテント泊していたら、どれだけ寒かったかと思うと、この施設の人に、本当に感謝です。

 

 この施設の人に迷惑が掛かってしまうので、どの施設かは伏せさせていただきますが、たまたま立ち寄ったコンビニのおばさんからいただいた情報をもとに、『うなぎ吉兆』を訪れ、そこのおばさんのご好意で施設の人をご紹介していただき、その施設の人のご好意で、寝床まで提供していただけるとは、本当にありがたいことです。

 

 今回、皇大神宮(伊勢神宮内宮)から熊野古道伊勢路を歩き、栃原まで来る間、通り道で会う方々は、小学生からお年寄りまで、年代を問わず、多くの人が、挨拶をしてくださり、熊野古道歩きをしている人に、非常に好意的でした。

 

 苦行滅罪の大変な旅ではありますが、多くの人の温かさに触れられて、本当に心がほっこりしました。

 

 

◇次回予告

 

 翌朝、5時過ぎに起床した私たちは、コンビニで買っておいた朝食を食べ、部屋を片付けて、お世話になった施設を後にしたのですが、次回は、そのお話からさせていただきます。

 

本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓  

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ     ペタしてね
にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016④(栃原⇒瀧原宮)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行二日目(平成28年5月30日(土))、5時過ぎに起床した私たちは、前日にコンビニで買った軽食で朝食を済ませ、部屋の片づけをし、お世話になった施設を出発し、川添神社へと向かいました。

 

◇川添神社

 

(川添神社/鳥居)

 

 川添神社の入口の鳥居を潜ると、左手に社務所があります。

 

 その社務所の先にある参道入口の鳥居を潜り、参道を歩いていくと、参道鳥居があり、その先に御手洗川に架かる神橋があります。

 

 その神橋を渡ると、手水舎があり、その先の階段を上がると、社が2つ並んでいます。

 

 向かって右手にあるのが、祖霊社です。

(川添神社/祖霊社)

 

 そして、祖霊社の右側に鎮座しているのが、川添神社社殿(拝殿と本殿)です。

 

 

(川添神社/川添神社拝殿)

 

 川添神社は、天照大神を始めとする30柱を超える神様をお祀りしていますが、その中でも主祭神は、建日別命(たてひわけのみこと)と天手力男命(あめのたぢからおのみこと)です。

 
天手力男命は、天照大神天石屋戸(あまのいわやと)に隠れた際、天照大神を引きずり出した力持ちの神として有名ですが、建日別命は、それほど有名ではないかもしれません。

 
建日別命は、大和王朝成立期に、伊勢、熊野周辺の国造(くにのみやつこ)だったので、この川添神社のある栃原も統治していました。その関係で、産土神(うぶすながみ。生まれた土地を守る神のこと。)として、川添神社に祀られたのです。

 

 川添神社は、熊野古道伊勢路のルートからは少し外れるのですが、境内が意外と広くて、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の別宮である月夜見宮に匹敵する立派な社殿があり、落ち着ける良い神社でした。

 

 

◇馬鹿曲り

 

 川添神社の参拝を終えた私たちは、熊野古道伊勢路のルートに戻り、神瀬方面に向けて歩き始めました。

 

 JR紀勢本線の踏切を越えると、前日、コンビニのおばさんや、『うなぎ吉兆』のおばさんがおっしゃっていた旅館岡島屋がありました。

 

 熊野古道伊勢路のルート沿いにあり、皇大神宮(伊勢神宮内宮)から約29kmの地点にあるので、熊野古道伊勢路の1日目の宿には最適の立地です。

 

 次に熊野古道伊勢路を歩くときは、旅館岡島屋に泊まろうと思いますニコニコ

 

 

 旅館岡島屋を過ぎて、しばらくあるくと中部電力栃原変電所が見え、少し歩くと、馬鹿曲りの道標が見えるのですが、この馬鹿曲りが曲者でした。

 道標の矢印に従って進むと、通り沿いから脇道に誘導されるのですが、その先に、道らしきものが見えません。

 

 何となく道っぽいところを歩いていくのですが、そうすると、なぜかガードレールを越えるような変なところに出てしまいます。

 

 仮にそれが正しい道だとしたら、ガードレールの所に道標が立っているはずですが、そのような道標もありませんでした。

 

 しかも、地図によると、馬鹿曲りを越えると、JR紀勢本線の線路は右手にあるはずですが、私たちは、線路を左手に見ながら、踏切を越えて、やっと線路を右手に見ながら歩くことになりました。

 

 踏切を越えた時点で、K井さんが、道が間違っていたことを確信したのですが、この日もかなりの距離を歩く予定で、先を急いでいたことと、戻ったところで、道がわかるわけでもないので、そのまま歩き続けることにしました。

 

 後からネットで確認したら、馬鹿曲りのところは、道路の下を走る排水埋設管の中を抜けて行くのが正式なルートで、その排水埋設管の先に熊野古道伊勢路が続いていたそうです。

 

◇三瀬砦跡

 

 JR紀勢本線の踏切を越え、一旦国道42号に合流し、ガソリンスタンドのところの分岐のところで右側の路に入っていくと、神瀬の多種神祠があります。

 

 

(神瀬の多種神祠)

 

 神瀬の多種神祠のすぐ先に道標があり、熊野古道伊勢路は、竹藪の中に入っていきます。

 

(神瀬橋手前)

 

(神瀬橋手前)

 

 小川の脇を歩いていくと、神瀬橋の下に出ます。

 

(神瀬橋下)

 

 この神瀬橋は、明治40年に作られたレンガ造りの橋で、通称「めがね橋」とも呼ばれているそうです。

 

 ここからしばらく歩き、再び国道42号に合流し、そこから下楠の分岐で、再び国道42号を離れて、右側の路に入っていき、JR紀勢本線の踏切を越え、歩いていくと、川添保育園、川添小学校、川添駅があり、その先に観音寺八柱神社などがあります。

 

 樋口橋を渡り、再び国道42号に合流してから、しばらく国道42号沿いを歩きます。

 この辺りは、何もないので、ただひたすら無心で歩くのみです。

 

 国道42号の上を紀勢自動車道が走っているところを潜ると、その先に弁慶岩があります。 

 

(弁慶岩)

 

 弁慶が、紀州からの帰り道に、この岩に腰を掛けて休んだという言い伝えがあるそうです。

 

 この弁慶岩からさらに国道42号沿いを歩き、右手に石屋さんが見えたところで、国道42号を離れて、未舗装の道に入っていきます。

 

(下三瀬)

 

 この道をしばらく歩くと、定峠の立札がありました。

 

(定峠)

 

 熊野古道伊勢路の最初の峠が女鬼峠なのですが、この定峠は、二つ目の峠だそうです。

 

 そこからこの定峠の立札のすぐ先に、八柱神社(やはしらじんじゃ)があります。

 

(八柱神社)

 

 神瀬にも八柱神社があったのですが、この辺りには、何ヶ所か八柱神社があります。

 

 この八柱神社の少し先に、三瀬砦跡の立札があります。

 

 

(三瀬砦跡)

 

 三瀬砦は、伊勢国司第8代当主であった北畠具教(きたばたけとものり)が、織田信長の伊勢侵攻によって、伊勢を追われた際に三瀬館を構えた際の砦で、元々は北畠家に仕えていた三瀬左京祐の居城でした。

 

 北畠家は、鎌倉時代末期に後醍醐天皇建武の親政を支えた重臣・北畠親房(きたばたけちかふさ)の三男・北畠顕能(きたばたけあきよし)が伊勢国司になり、伊勢に定着し、戦国時代に入り、北畠晴具(きたばたけはるとも)、北畠具教父子が戦国大名として勢力を拡大しますが、そこに、前述のように織田信長が侵攻します。

 

 そして、和睦の条件として、織田信長の次男・茶筅(後の織田信雄(おだのぶかつ))が北畠具教の子・北畠具房(きたばたけともふさ)の養嗣子となり、北畠具教の娘・雪姫を娶りし、元服して北畠具豊(きたばたけともとよ)と名乗り、家督を相続後、北畠信意(きたばたけのぶおき)と改名しました。

 

 しかし、その後、北畠信意は、本能寺の変によって父の織田信長、その嫡男の織田信忠が亡くなると、織田家の家督争いに名乗りを上げるため、織田姓に服し織田信雄(おだのぶかつ)と名乗り、北畠姓を捨てたことから、結果的に伊勢国司としての北畠家宗家は、滅亡してしました。

 

 三瀬付近は、名門の北畠家の栄枯盛衰を共にした北畠家所縁のスポットが多く存在している場所なのです。

 

 

◇三瀬坂峠

 

 さて、三瀬砦跡から少し歩くと、熊野古道伊勢路は、国道42号と交差するのですが、この日は、ここまでコンビニなどの商店がなかったので、ルートを外れて、国道42号沿いのコンビニに寄り、水などを購入しました。

 

 その間、前日に宿泊させていただいたとある施設の方に電話をし、改めてお礼を申し上げました。

 

 今回、K井さんのプランでは、経費節減のため、二日に一度はテント泊を予定していたのですが、私はテントだとあまり眠れず、疲れも取れないので、このとある施設の方が無償で施設の一室に泊まらせてくださったことは、本当にありがたかったです。

 

 お礼の電話を終え、私たちは再び歩き始めました。

 

 しばらく歩くと、宮川に架かる舟木橋を通るのですが、この舟木橋の橋脚はかなり高く、その割に欄干が低く、舟木橋を通るときは、若干脚が竦みました。

 

 しかし、舟木橋からの景色が奇麗だったので、スマホを落とさないように恐る恐る写真を撮り、スマホを握りしめて、舟木橋を早足で渡りました。

 

(舟木橋から眺める宮川)

 

 この舟木橋を渡ったところで、熊野古道伊勢路は、国道42号と合流せず、左に曲がっていきます。

 

 これまで私たちが下三瀬の八柱神社から歩いてきた道は、ちょうど宮川の流れとほぼ並行して宮川の西側の外円を走っているのですが、その宮川を挟んで、反対側である東側の内円を、同じように宮川とほぼ並行して走っているのが、舟木橋を過ぎて左折している熊野古道伊勢路なのです。

 

 そして、三瀬砦跡のあった場所の宮川を挟んだ対岸辺りまで歩くと、宮川が東側に湾曲しており、それに合わせて、熊野古道伊勢路も湾曲し、そして、再び南に向かうと、多岐原神社(たきはらじんじゃ)があり、そこから、三瀬坂峠へと続き、国道42号に再び合流します。

 

 アルファベットのDの、直線の部分が国道42号で、湾曲した部分が、熊野古道伊勢路、三瀬坂峠となっているわけです。

 

 下三瀬の八柱神社から、舟木橋まで、けっこうな距離を歩いて来たので、熊野古道伊勢路の正規ルートであるアルファベットのDの湾曲した部分を通るということは、それに近い距離の約2倍の距離を歩かないといけないということです。

 

 その多岐原神社も、由緒正しき神社ですし、三瀬坂峠も、熊野古道伊勢路の名所の1つではあるので、そこを通りたい気持ちはやまやまだったのですが、この日は、熊野古道伊勢路の名所で、難所の1つでもあるツヅラト峠を越え、紀伊長島まで歩かなければなりませんでした。

 そのため、時間をロスすると、ツヅラト峠越えの最中に日没を迎える危険もあったので、K井さんの提案で、三瀬坂峠をパスして、国道42号、つまりアルファベットのDの直線部分を通ることで、ショートカットすることにしました。

 

 そして、国道42号沿いを歩き続け、三瀬坂峠の出口で再び熊野古道伊勢路と合流するので、そこから熊野古道伊勢路の正規ルートを歩いていくと、瀧原宮に着きます。

 

(瀧原宮/鳥居)

 

 私たちがパスした三瀬坂峠の手前にある多岐原神社と、瀧原宮は、漢字は違うものの、いずれも「たきはら」と読みますが、多岐原神社は、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の摂社で、瀧原宮は、皇大神宮別宮です。

 

◇次回予告

 

 瀧原宮に着いた私たちは、早速瀧原宮の参拝をしたのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓  

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ    ペタしてね
にほんブログ村

コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー③(解決の方向性)

$
0
0

 今回も、前回に引き続き、コラボ企画の相方であるリコラさんの記事をたたき台に、トラブルメーカーについて、お話をさせていただきます。

 

◇トラブルメーカーは幸せになれるのかはてなマーク

 

 リコラさんは、2コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー トラブルメーカーは幸せになれるのか』(http://ameblo.jp/re-cora/entry-12279949306.html)の中で、「トラブルメーカーは幸せになれるのかはてなマーク」という問題提起をしました。

 

 そこからの思考のプロセスは、リコラさんの記事をじっくりお読みいただくとして、私なりの解釈で、かなり端折っていえば、トラブルメーカーの特徴、要素である強い被害者意識を持っている人や、トラブルメーカーの特徴と重なる部分の大きい自己愛性パーソナリティー障害(人格障害の1つ)の人は、そのままの状態では、幸せになることは難しいとの前提を示しています。

 

 これについては、私も全く同感です。

 

 

 ちなみに、リコラさんは、精神面の成長のプロセス論と、マズローの欲求五段階説(欲望五段階説)から、いまだに到達していないステージを一足飛びに飛び越えて、上のステージの欲求を求めてしまうところに、トラブルメーカーが幸せになれない原因があると論じています。

 

 以前、このコラボ企画の中でもお話ししましたが、マズローの欲求五段階説は、異論もあるところですし、いくつかの解釈もありうるところなのですが、私も、例えば第1段階の欲求(生きるために必要な生理的な欲求)が満たされて初めて第2段階(安全の欲求)の欲求が生じるとは考えていません。

 

 どちらかというと、もっとファジーで、第1段階の欲求と第2段階の欲求は、ある程度併存していて、第1段階の欲求が満たされる余地が出てくると、第2段階の欲望への欲求が強くなり、その時点で、今度は第3段階の欲望も既に芽が出始めるといったイメージの方が、実態に即していると思います。

 

 いずれにせよ、私のようなファジーな解釈をしたとしても、第1段階の欲求が全く満たされていない人が、一足飛びに第5段階の欲求(自己実現への欲求)を実現しようとしていることが、不健全なことであるという結論は、変わりません。

 

 

 ところで、私は、今回の『コラボ企画Vol.5〜トラブルメーカー』で、最初のたたき台とさせていただいた私の記事『沈思黙考Vol.12〜トラブルメーカー』の中で、トラブルメーカーの特徴を抽出する際に、例えば「義務を履行しない“くせに”、権利を主張する」、「責任を果たさない“くせに”、自由を求める。」というような表現を多用しています。

 

 この“くせに”という表現が、私がトラブルメーカーに対して抱いている負の感情のうちの1つをまさに示していると思います。

 

 これについては、次回、リコラさんにバトンを渡す前に、ゆっくり論じさせていただきたいと思います。

 

 

◇解決の方向性総論

 

 さて、トラブルメーカーに対して、考えられる解決の方向性は、大きく分けて2つが考えられます。

 

 1つは、トラブルメーカー自体を変えること

 

 もう1つは、トラブルメーカーへの対処法を身につけること

 

◇解決の方向性各論①~トラブルメーカー自体を変えることの適否

 

 まず、トラブルメーカー自体を変えることは可能でしょうかはてなマーク

 

 これは、不可能もしくは著しく困難であると考えます。

 

 もし仮に、トラブルメーカーを改心させようとしたら、自分がターゲットになり、その一人のために、時間と労力と精神力を浪費させられます。

 

 また、トラブルメーカーは、私がその本質的要素の1つに挙げたように、精神の弱さがその行動原理の源泉となっています。

 

 リコラさんも論じているように、自分と向き合うことで、トラブルメーカーは、被害者意識から解放され、過剰な自己愛によって自分を守る必要性もなくなる可能性があると思います。

 

 しかし、トラブルメーカーになる人は、自分の弱さと向き合うのを極端に恐れているので、自分と向き合わせようとする人間を全力で排除しようとします。

 

 そのような人に、「精神的に強くなってください。」と言っても、何の意味もないのです。

 

 

 そのような人が変わることがあるとしたら、トラブルメーカー自らが、自分が成長したいと思うこと、自分を見つめなおしたいと思うことです。

 

 

 でも、もし、トラブルメーカーの人が、私たちのこの記事を読んでくださっているとしたら、その人は、既にトラブルメーカーではなくなっていると私は思います。

 

 なぜなら、トラブルメーカーが読んだら、否応なく自分のグロテスクな感情を暴露されるトラブルメーカーの分析記事など、精神が脆弱なトラブルメーカーは、絶対に読みたいくないからです。

 

 

 ここで、次回、リコラさんにバトンを返す前に、1つ、問題提起をしたいと思います。


Q1:トラブルメーカーが、自分と向き合い、成長したい、トラブルメーカーから脱却したいと思うきっかけには、何があるのでしょうかはてなマーク

 

Q2:そのきっかけは、トラブルメーカー自身が内在的に自発的に気付く場合の他、周りの人や、或いは社会全体が、外在的にそのようなきっかけを与えることは可能でしょうかはてなマーク

 

 ただし、この回答として、自分が犠牲になって、トラブルメーカーのターゲットになってでも、改心させることに全力を尽くすという選択肢は、なしです。

 

 いずれの問いも、私が以前から悩んでいることなので、リコラさんのご意見も伺って、議論を深めていきたいと思います。

 

 私の中では、少なくともQ2に関しては、うっすらと答えが浮かんでおりますが、リコラさんから次にバトンが戻されるまでの間に、もう少し検証をして、論理を精緻化しておきたいと思いますあせる

 

 

◇解決の方向性各論②

 

 もう1つの方向性は、トラブルメーカーの対処法を身につけることです。

 

 対処法としては、「とにかく離れなさい」というアドバイスが多くみられるとリコラさんも論じていますが、実は私も、『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』の中で、うまくフェードアウトするのがベターであると論じています。

 

 これは、以前私が執筆した『沈思黙考Vol.11~サイコパス』の中で、サイコパスへの対処法として述べたものと同じなのですが、その論拠は、サイコパスもトラブルメーカーも、他者が容易に改心させることができず時間と労力の浪費を強いられるからです。

 

 しかし、世の中にはトラブルメーカーの要素を持った人は、少なからずいます。

 

 そのようなときに、常に上手くフェードアウトして逃げられるとは限りません

 

 

 だからこそ、トラブルメーカーの本質を知ることで、少しでもトラブルに巻き込まれない知恵を身につけていただくことと、自分自身がトラブルメーカーにならないように、私も含めて、それぞれが自戒していただくことで、世の中のトラブルメーカーを減らしたいというのが、私が『沈思黙考Vol.12 ~トラブルメーカー』を執筆した動機でした。

 

 

 今回、実は、リコラさんが、この「トラブルメーカーへの対処法」に、1つの解決のヒントを示してくださいました。

 

 

◇次回予告

 

 次回は、前述のように、“くせに”という表現に込めた私のトラブルメーカーに対する思いと、リコラさんが示してくださったトラブルメーカーへの対処法の糸口に対する私の考えを述べさせていただいた上で、再びリコラさんにバトンをお返ししたいと思いますニコニコ

 

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 Facebookユーザーの方は、Facebookの「いいね」を押していただけると嬉しいです
 また、『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「弁護士」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓            ↓↓↓ 

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ    ペタしてね
にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑤(瀧原宮⇒ツヅラト峠)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行二日目(平成28年4月30日(土))、瀧原宮(たきはらのみや)に着いた私たちは、早速瀧原宮を参拝させていただきました。

 

◇瀧原宮

 

 皇大神宮(伊勢神宮内宮)のところでご説明させていただいたように、第10代崇神天皇の皇女豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)が、天照大神に相応しい御鎮座の地を求めて諸国巡礼の旅に出たのですが、それを引き継いだのが、第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)です。

 

 倭姫命が、御杖代(みつえしろ)として天照大神(あまてらすおおみかみ)を奉戴して、御鎮座の地を求め、宮川下流の磯宮(いそのみや)を発ち、宮川の上流へと向かったところ、大和の瀧原の国という美しい土地があったので、そこに二宇の宮殿を建てたのが、瀧原宮の起源とされています。

 

 そして、その後、天照大神のご神意により、伊勢にある現在の皇大神宮(伊勢神宮内宮)に鎮座の地を移したとの言い伝えがあります。

 

 このように、天照大神は、いくつかの地を遷座して、瀧原宮に鎮座し、その後、皇大神宮(伊勢神宮内宮)に鎮座することになるのですが、元々天照大神が鎮座していた場所は、いずれも元伊勢と呼ばれる(豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の主祭神である豊受大御神が元々鎮座していた地も、元伊勢と呼ばれます。)のです。

 

 もっとも、天照大神が鎮座していた場所のうち、この瀧原宮だけは、元伊勢と呼ばれず、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮とされ、特別な扱いを受けています。

 

 そのような特別な神社であると瀧原宮は、参道口の鳥居に立っただけで、不思議と心安らぐ素敵な神社でした。

 

 

(瀧原宮/鳥居)

 

 瀧原宮の鳥居を潜ると、さらに穏やかな空気感に包まれます。

 

 穏やかな空気感に包まれた参道をしばらく歩くと、火除橋(ひよけばし)があります。

 

(瀧原宮/火除橋)

 

 この火除橋を渡ると右手に頓登川(とんどがわ)があり、そこが御手洗場になっています。

 

(瀧原宮/御手洗場)

 

 皇大神宮(伊勢神宮内宮)でも、火除橋を渡ると、右手に五十鈴川が流れており、そこが天然の御手洗場となっているのですが、そのことも含め、皇大神宮(伊勢神宮内宮)と瀧原宮は、似たような構造をしています。

 そのため、瀧原宮は、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の雛形になったとの説があります。

 

 御手洗場で身を清めた私たちが、さらに参道を進んでいくと、4つの社が並んでいました。

 

(瀧原宮/瀧原竝宮と瀧原宮の拝殿)

 

 向かって左から、瀧原竝宮(たきはらならびのみや)、瀧原宮若宮神社長由介神社(ながゆけじんじゃ。川島神社)と並んでいるのですが、参拝は、瀧原宮、瀧原竝宮、若宮神社、長由介神社の順で参拝するのが作法だそうです。

 

 瀧原宮は、天照大神和御魂(にぎみたま)を、瀧原竝宮は、天照大神荒御魂(あらみたま)をお祀りしています。

 
 皇大神宮(伊勢神宮内宮)のところでもご紹介しましたが、
和御魂とは、神様の御魂の穏やかな状態をいい、荒御魂とは、荒々しく格別に顕著な御神威を現す御魂の状態をいいます。

 

 この瀧原宮は、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の御神域と同じ穏やかな空気感に包まれていたのですが、この瀧原宮は、いわゆるゼロ磁場と呼ばれる地に鎮座しています。

 

 ゼロ磁場とは、磁石のN極とS極の力がぶつかり合って、お互いの力を打ち消し合い、磁場がゼロになっていると考えられている場所で、例えば、日本最大の断層である中央構造線上が、そのゼロ磁場とされています。

 

 この中央構造線上には、近年ゼロ磁場として有名になった長野県の分杭峠(ぶんぐいとうげ)のほか、高野山豊川稲荷など、多くのパワースポットと呼ばれる地が点在しています。

 

 これらの寺社仏閣が開創された当時、断層に対する知識は、現在と比べれば、おそらく知られていないことの方が圧倒的に多かったと思われますが、それにもかかわらず、昔の人は、このような地を神聖な場所として感じ取り、崇敬していたというのは、本当にすごいことだと思います。

 

 

◇古民家カフェこんぺいとう

 

 さて、瀧原宮の参拝を終えた私たちは、三瀬付近のコンビニで買った軽食もあったのですが、K井さんが、この後の行程を考え、ランチは飲食店でちゃんとした食事を食べたいとのことで、お店を探しながら次の目的地へ向かおうと思っていたところ、瀧原宮のすぐ近くに、古民家カフェこんぺいとうがあったので、そこに入ることにしました。

 

 古民家カフェこんぺいとうは、外観も店内もオシャレな雰囲気で、瀧原宮に参拝に来た方々などで混雑しており、登山着に登山用ザックを背負って私たちは、若干場違いな感じもしましたが、お店の方も、快く案内してくださいました。

 

 ここは、基本的にはカフェなので、カフェメニューが中心なのですが、その他に、伊勢うどん、1500円のこんぺいとうランチ、730円の日替わりランチ(値段はいずれも入店当時)などもあったので、私達は、日替わりランチを注文しました。

 

(古民家カフェこんぺいとう)

 

 前日、栃原の『うなぎ吉兆』で牛丼を食べて以降、おにぎりやカロリーメイトなどの軽食した口にしていなかったので、日替わりランチの味噌汁が、胃に染み渡るほど、美味しかったですニコニコ

 

 

◇ツヅラト峠

 

 食事を終えた私たちは、この日の宿泊予定地である紀伊長島に向けて歩き始めました。

 

 今回の旅では、K井さんのプランでは、二日に一度はテント泊をすることになっていたので、ザックテントシュラフ(寝袋)など、テント泊に必要なものを積み込んでいたので、ザックはかなりの重さになっていました。

 

 それに加え、毎回、熊野古道等を歩く際に、足を痛めるので、今回は、膝のサポーターに加え、シューズのインソールを新たに買って、装着していたのですが、結果的にそのインソールが合わず、土踏まずと足の甲の両方が痛み始めていたため、私の歩くペースが少し遅れ気味になっていました。 

 

 そこで、ここから先のルートと目的地を再確認した上で、ここからは、各自のペースでそれぞれ歩くことにしました。

 

 瀧原宮から、熊野古道伊勢路をしばらく歩くと、大紀町役場の先で国道42号に一旦合流し、すぐにまた旧道へと入ります。

 

 しばらくの間、旧道を歩いては時々国道42号に合流するという感じが続きます。

 

 阿曽の落瀬橋を越えると、熊野古道伊勢路は、大内山川と並走するような形になります。

 

(大内山川/阿曽付近)

 

 古民家カフェこんぺいとうから、1時間50分ほどで、柏野大橋に着きました。

 その柏野大橋を渡ったところの下に、垣内後庚申塚(かいとじりこうしんづか)があります。

 

(柏野大橋からの垣内後庚申塚)

 

 柏野大橋を左折して、大内山川沿いをしばらくあるき、紀勢本線の垣内後踏切を越えて、さらに歩いていくと、大皇神社(だいこうじんじゃ)がありました。

 

(大皇神社)

 

 大皇神社は、第55代文徳天皇の第一皇子であり、木地物を考案されたとされる惟喬親王をお祀りしている神社です。

 

 大皇神社に着いたのが、14時過ぎだったのですが、この後、約21kmの道のりを歩いて、ツヅラト峠を越えて、紀伊長島まで行かなければならなかったので、神社には入らず、この標柱の前で手を合わせ、先を急ぐことにしました。

 

 大皇神社からさらに数分歩くと、大蓮寺があります。

(大蓮寺)

 

 この大蓮寺の前の踏切を超え、しばらくすると、紀勢自動車道が見え、その下を潜り、熊野古道伊勢路は、大きく湾曲した大内山川沿いを通るのですが、次に国道42号線まで合流するまでの間、道沿いには何もないエリアだったので、国道42号を通って、ショートカットすることにしました。

 

 その後、またしばらく、旧道を通り、時々国道42号を歩き、また旧道に入るということを繰り返します。

 

 そして、紀勢本線の大内山駅を過ぎたところで、国道42号に合流し、ここからしばらく国道42号沿いを歩きます。

 

 ここは、ずっと平坦な道で、何もないので、ただひたすら歩くだけなのですが、テントなどの入った10kg近いザックを背負って、ただひたすら歩くというのは、大変です。

 

 この辺りから、私のペースが落ち、K井さんとの距離が開いてしまいました。

 

 しばらく国道42号を歩き続けると、梅ヶ谷の三差路のところで、「ツヅラト峠」と書かれた標識が目に入ります。

 

(ツヅラト峠標識)

 

 ここから熊野古道伊勢路は、二手に分かれます。

 

 右折すると、ツヅラト峠で、直進すると荷坂峠へと向かいます。

 

 ツヅラト峠は、紀伊伊勢国境にある峠で、元々は熊野古道伊勢路はツヅラト峠がメインルートだったようですが、ツヅラト峠が、九十九折れ(つづらおれ)の急坂であったことに由来する名であることからもわかるように、急な峠であったため、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が紀州藩主となった頃から、熊野古道伊勢路は、荷坂峠を通るルートに変更されたそうです。

 

 私達は、K井さんの提案で、この日は、景色も良く、熊野古道伊勢路の名所の1つでもあるツヅラト峠を通ることにしました。

 

 ここに辿り着くまで、K井さんとは、300m近くの距離が離れていて、しかも、梅ヶ谷の三差路に着いたときに、既に16時15分だったので、K井さんは、そのまま先を進んでいると思っていたのですが、三差路を曲がった踏切の先で、K井さんが待っていてくれました。

 

 そこから、その道を直進していくと、中野橋があり、その先に定坂公園がありました。

 この公園にトイレがあったので、ここで少し休憩をしてから、出発。

 

 公園の先で、道は川にぶつかり、そのまま左折して川沿いを歩く形になります。

 

 そして、下里橋を渡って少しあるくと、栃古橋にぶつかるのですが、その栃古橋の手前を左折すると、ツヅラト峠へと向かう歩行者専用道があります。

 

(栃古橋付近)

 

 道標を見ると、「ツヅラト峠登山口1400m」と書いてあります。

 

(ツヅラト峠/道標)

 

 この時点で、既に16時50分前後だったので、ツヅラト峠ではなく、その登山口までまだ1400mもあるという事実に、私は少し気持ちが萎えそうになりました。


 しかし、まだ明るく、日没までは時間があったので、暗くなる前には、ツヅラト峠を下り、民家のある付近までは辿り着きたいと思い、何とか気力を振り絞ることにしました。

 

◇次回予告

 ここからいよいよ、ツヅラト峠へと入っていくのですが、次回は、そのお話からさせていただきます。

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ    ペタしてね

にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑥(ツヅラト峠⇒紀伊長島)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行二日目(平成28年4月30日(土))、栃古橋の手前にあるツヅラト峠登山口へと向かう歩行者専用道まで辿り着いた私たちは、そのまま道標に従って、ツヅラト峠へと向かいました。


◇ツヅラト峠

 

 栃古橋の手前を左折して、歩行者専用道を少し歩くと、またツヅラト峠の道標と、熊野古道伊勢路の幟が有ります。

 

(ツヅラト峠手前/歩行者専用入口)

 

 この辺りは、古道感があって、楽しいエリアです。

 

(ツヅラト峠/歩行者専用道)

 

 歩行者専用道をしばらく歩くと、一旦舗装道に出ますが、高野橋の手前にツヅラト峠の案内板が有り、そこから左側の林道へと入っていきます。

 途中、道標があり、「新宮まで102km」と書かれていました。 

 

(ツヅラト峠/道標)

 

 まだまだ先は長いですあせる

 

 谷川に架かる丸太橋を渡ると、ツヅラト峠へと続く急坂が始まります。

 

 

(ツヅラト峠/登り口の先)

 

 ツヅラト峠の途中には、「05/18」などと書かれた道標が点在しています。

 

(ツヅラト峠/道標)

 

 これは、熊野古道伊勢路の多くの峠に100mおきに設置されているのですが、怪我をして動けないときなど、警察や消防に電話をする際に、「ツヅラト峠 05」と言えば、レスキューの人は、だいたいの所在地が分かる仕組みになっています。

 

 このツヅラト峠の「18/18」は、反対側の登り口である志子登り口にあるので、「05/18」は、ツヅラト峠の18分の5まで進んだことを意味します。

 

 私は、今回の熊野古道伊勢路の峠越えでは、この道標の数字が分母に近づいていくのを励みに、歩いたのですが、峠の入口付近で、分母が30以上などの大きな数字だと、それを見た時点で、若干怯んでしまいますあせる

 

 ツヅラト峠の歩行者専用道入口の道標から、30分ほどで、ツヅラト峠に着きました。

 

(ツヅラト峠)

 

 既に日も落ち始めようとしていましたが、ツヅラト峠からの眺めは、とても綺麗でした。

 

(ツヅラト峠からの眺望)

 

  ツヅラト峠から20分ほど歩くと、「ツヅラト峠 651m」という道標が有るのですが、その下に、「志子登り口554m」という道標がありました。

 

 

(ツヅラト峠/志子登り口道標)

 

 

 私は、高野道(熊野古道小辺路の逆ルートで、熊野本宮大社から高野山に向かう高野山の参詣道)を歩いた時もそうだったのですが、熊野古道歩きなどの際、特に荷物が重いときなどは、膝を痛めてしまうことがあるのですが、その場合、登りは何とかなるものの、下りは膝に激痛が走り、一気にペースが落ちます。

 

 今回も、ツヅラト峠の下りで、膝が悲鳴を上げ、K井さんから一気に距離が離れてしまい、夕暮れが迫る中、しばらく一人旅が続くことになりました。

 

 この道標のすぐ先に、地元の人たちに信仰されてきた「山の神」の祠が有りました。

(ツヅラト峠/山の神)

 

  この山の神の先で、石畳道が始まるのですが、前述のツヅラト峠の名前の由来のとおり、そこそこの急な峠なので、膝が悲鳴を上げている私には、かなりの苦行でしたあせる

 

(ツヅラト峠/志子登り口手前)

 

 石畳を下りきると、「ツヅラト峠登り口 300m」の道標が見えるのですが、その下には、何と「国道422号 2070m」との道標が・・・。


 

(国道422号道標)

 

 ここに着いた時点で、既に18時20分。

 

 4月30日で、日が長くなってきているとはいえ、紀伊長島に着くまでに、日没を迎えるのは必至の状況でした。

 

 この道標の先に、また山の神の祠がありました。

 

(山の神)

 

 その山の神の祠の先に、道標があったのですが、「新宮まで98km」の文字。

 

(道標)

 

 遂に、新宮まで100kmを切りました。

 

 そして、その裏には、「伊勢まで 68km」の文字。

 

(道標)

 

 前日、皇大神宮(伊勢神宮内宮)を発ってから、三瀬坂峠でショートカットをしたものの、少なくとも60km以上の道を歩いて来たという達成感が湧き、また前に進む元気をもらいましたニコニコ

 

 しかし、ここから、何もない平坦な道をずっと歩き続けます。

 

◇紀伊長島

 

 しばらくして、民家が見えてくる辺りで、K井さんが休憩して待っていてくれました。

 

 そこから、膝と足の甲、土踏まずの痛みに耐えながら、1時間間半ほど歩き、20時30分過ぎに、紀伊長島駅に着きました。

 

 この日は、宿泊場所を特に決めていなかったのですが、日が落ち始めて、若干寒かったこと、紀伊長島駅周辺に、テント泊ができそうな適当な場所がなさそうだったことなどから、紀伊長島駅近辺の宿に宿泊することにしました。

 

 K井さんが、しらみつぶしに宿に電話したところ、廃業していたり、つながらなかったり、既に満室だったりと、なかなか見つからなかったのですが、道瀬むつみ旅館が、部屋が空いていて、泊めていただけることになったので、紀伊長島駅からタクシーでそこに向かいました。

 

 既に21時前後だったので、途中、コンビニに寄っていただき、夕食とお酒、翌朝の朝食を買い、むつみ旅館へと向かいました。

 

 この日は、栃原から紀伊長島駅まで、途中でショートカットした三瀬坂峠の部分を除いても、朝6時から、水を含めて約10kg近いザックを背負い、約37kmの道のりを歩いてきたので、ヘトヘトでしたが、むつみ旅館で、お風呂に入ることができて、少し疲れを癒すことができました。

 

 ところで、紀伊長島というと、何となく長島温泉長島スパーランドなどが思い浮かぶ人もいるかもしれません。

 また、紀伊長島には、長島城跡があるので、歴史好きは、長島一向一揆を思い浮かべる人もいるかもしれません。

 

 しかし、長島温泉も、長島スパーランドも、長島一向一揆の拠点となった長島城も、いずれも紀伊長島ではなく、三重県桑名市長島町の方です。

 いずれも長島と呼ばれていた地なので、ややこしいですが、そのため、紀北町の方を紀伊長島桑名市の方を伊勢長島と呼んで、区別するようになったようです。

 

 実は私も、長島と聞いて、長島一向一揆を思い浮かべたのですが、紀伊長島の方ではありませんでしたあせる

 

 

◇次回予告

 

 翌朝、5時に起床して、前日にコンビニで買った朝食を食べ、三野瀬駅へと向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ     ペタしてね
にほんブログ村


婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑦(荷坂峠⇒一石峠)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行三日目(平成28年5月1日(日))は、朝5時に起床しました。

 

◇三浦峠

 

 前日にコンビニで買った軽食で朝食を済ませながら、部屋の窓を開けてみると、道瀬海岸の先に、綺麗な朝日を見ることができました。

 

(道瀬海岸/むつみ旅館からの眺望)

 

 チェックアウトを済ませた私たちは、三野瀬駅へと向かいました。

 

 前日、紀伊長島駅からタクシーで道瀬のむつみ旅館まで来たのですが、道瀬は、紀伊長島駅から歩く熊野古道伊勢路の途上にある地なので、一旦、紀伊長島駅に戻って、そこからまた熊野古道伊勢路を歩きたかったからです。

 

 急ぎ足で三野瀬駅へと向かったのですが、駅に着く直前、電車が走っていくのが見えました。

 

 その後、駅に着いてみると、その電車が、私たちが乗らなければならない電車で、それを逃すと、次の電車まで、1時間以上の時間がありました。

 

 私たちは、むつみ旅館に貼ってあった時刻表を見て、目的の電車に乗れるように着いたはずだったのですが、どうやら、時刻表を見間違えていたようです。

 

 ここで1時間以上の時間をロスするわけにもいかないということで、K井さんの提案で、三野瀬駅から紀伊長島駅まで、熊野古道伊勢路を逆に歩き、紀伊長島駅から三野瀬駅まで電車に乗って移動し、三野瀬駅から、再び熊野速玉大社に向かって歩く作戦に切り替えました。

 

 三野瀬駅から熊野古道伊勢路を逆走すると、すぐ三浦峠の三野瀬側登り口があります。

 

(三浦峠/三野瀬側登り口)

 

 熊ヶ谷橋の手前に、「三浦峠 18/18」と書かれた道標が有りました。

 

 前回お話ししたように、この道標は、熊野古道伊勢路の主に峠に、100m置きに設置されているものなので、分母の大きさは、その峠の距離と比例しています。

 

 三浦峠の分母は18なので、前日に歩いたツヅラト峠と同じということです。

 

(三浦峠/三野瀬側登り口の先)

 

 三浦峠は、最初は未舗装の林道のような感じだったのですが、すぐに古道感のある道となっていきます。

 

 三野瀬側の登り口から、20分ほどで三浦峠頂上に着きました。

 

(三浦峠)

 

  三浦峠頂上から、10分ほど下ると、三浦峠登り口へと着きます。

 

(三浦峠登り口)

 

◇道瀬海岸

 

 そこから熊野古道伊勢路は、道瀬海岸沿いを進みます。 

 

(道瀬海岸)

 

 道瀬海岸沿いを進むと、この日の朝にチェックアウトをした道瀬のむつみ旅館を通ります。

 K井さんがむつみ旅館の前を通ったところ、ちょうどむつみ旅館女将がいて、三野瀬駅の電車の出発時間を間違えたという話をしたところ、車で紀伊長島駅まで送ってくださるとのことでした。

 

 他のお客さんがチェックアウトをしている間、むつみ旅館の女将は、余ったからと言って、手作りのロールサンドコーヒーを振る舞ってくださいました。

 

 実はこのむつみ旅館の女将は、とても世話好きな方のようで、前日も、この辺りの熊野古道伊勢路の見所をいろいろ挙げて、「その間はつまらないから、そこまで送っていこうか?」などと言ってくれました。

 

 確かに観光客の中には、熊野古道伊勢路の名所だけ歩いて、その他を交通機関を使って移動する方も多いので、女将は気を遣ってそうおっしゃったのですが、私たちは、名所を巡ることが目的ではなくて、熊野古道伊勢路を踏破することが目的だったので、丁重にお断りしたのですが、この日、紀伊長島駅まで車で送って下さるという提案は、ありがたくお受けしました。

 

 ここから紀伊長島駅まで歩いて、そこから電車で三野瀬駅に戻っても、女将に紀伊長島駅まで送ってもらって、そこからまた三野瀬駅まで歩いても、歩く道は一緒なのですが、K井さんも私も、三野瀬駅で電車に乗りそこなったため、三浦峠を逆走して紀伊長島駅に向かうのは、不本意で、やはり、せっかくなら順路どおり歩きたかったのです。

 

◇荷坂峠

 

 紀伊長島駅までむつみ旅館の女将に送っていただいた後、K井さんが、「せっかくだから、荷坂峠も歩かないはてなマークと言いました。

 

 元々は熊野古道伊勢路はツヅラト峠を通っていたのですが、江戸時代の初めに、紀州藩初代藩主徳川頼宜(とくがわよりのぶ)が、急な九十九折れ(つづらおれ)の坂が続くツヅラト峠から、荷坂峠に熊野古道伊勢路のメインルートを変更したのですが、その後も、ツヅラト峠は、庶民の生活道路として使われ続けました。

 

 そのような経緯もあり、いずれの道も、熊野古道伊勢路ではあるのです。

 

 ツヅラト峠と荷坂峠は、梅ヶ谷の三差路のところで分岐するのですが、そこから荷坂峠の入口までは、ほぼ国道42号沿いを歩くだけなので、私たちは、紀伊長島駅から、荷坂峠の入口までタクシーで行き、そこから荷坂峠を歩いて、紀伊長島に戻ることにしました。

 

 荷坂トンネルを抜けて、杣谷橋の手前付近でタクシーを降ろしてもらい、熊野古道伊勢路の看板に従って、歩いていきました。

 

(荷坂峠)

 

 しばらくは、車も通れる未舗装の林道のような道が続きます。

 

 少し歩くと、荷坂トンネルの手前で、再び国道42号にぶつかります。

 

 そこは、タクシーの運転手さんにも注意されたのですが、そこは信号もない所なので、車に注意をして、反対側へと渡ります。

 

 そうすると、「熊野古道 荷坂峠」と書かれた看板があります。

 

(荷坂峠)

 

 この看板の先の左手に荷坂やすらぎ苑があるのですが、その先から、古道感漂う道へと入っていきます。

 

 

(荷坂峠)

 

 荷坂峠は、国道42号の荷坂トンネルの手前から左手に入って行き、JR紀勢本線のトンネルの上を越えて行きます。

 

 JR紀勢本線のトンネルの上を越え、沖見平を過ぎた辺りから、何ヶ所か分岐が有り、一方には「江戸道」、他方には「明治道」と書かれています。

 

 明治道は、明治時代になってから拓かれた道で、基本的には、江戸道の方が急な代わりに距離が短いのに対し、明治道の方が、緩やかな分、距離が長い傾向にあります。

 

 この荷坂峠以外の峠でも、江戸道、明治道と分かれているところが有り、場所によっては、一方が崖崩れなどで封鎖されている場合もあるので、案内を確認して進んでいただきたいところですが、いずれも歩ける場合は、それぞれの好みだと思います。

 

 K井さんは、ほぼ江戸道を歩いたようですが、私は、急な下りが苦手なので、江戸道と明治道を交互に選択して歩くなどしました。

 

(荷坂峠/道標)

 

 荷坂峠を下りきると、猪垣がありました。

 

(荷坂峠)

 

 猪垣は、田畑などを猪や鹿から守るための石垣ですが、熊野古道伊勢路では、ここ以外でも、猪垣に何度かお目にかかります。

 

 猪垣を過ぎ、しばらく歩くと、熊野古道伊勢路は国道42号の下をくぐり、旧道を通ります。

 

 ここから、普通の住宅街を通る旧道を約3kmほど歩くと、紀伊長島駅に着きます。

 

 朝5時過ぎに道瀬のむつみ旅館を出てから、三浦峠荷坂峠を越えたのですが、その後の紀伊長島駅までの舗装された旧道を歩いていると、また足が痛み始めました。

 

 今回、足を痛めないために、膝にはサポーターをして、さらにトレッキングシューズにはインソールを装着していたのですが、それでも10kg近い荷物を背負っての下り道で、膝を痛め、さらに、足の裏には大きな肉刺ができ、足の甲にも痛みが走っていたのです。

 

◇一石・平方峠手前

 

 紀伊長島駅から、踏切を渡り、長島橋を渡り、長島港沿いを歩いていくのですが、途中に薬局があったので、そこでテーピングコールドスプレーを買いました。

 

 このコールドスプレーのおかげで、少し歩くペースを戻すことができました。

 

 長島橋を渡って、長島港沿いを歩いていくと、長楽寺佛光寺長島神社大師堂と建ち並んでいるのですが、この日も先が長いので、全て参拝せずに素通りさせていただきました。

 

 大師堂の先で、国道42号のぶつかり、そこを左折して、しばらく国道42号沿いを歩きます。

 

 ここで、またペースが落ちて、K井さんとの距離が広がってしまいました。

 

 舗装された道に入ると、なぜか足の痛みが増し、ペースが落ちてしまったのです。

 

 国道42号沿いに左手には長島造船が有り、その先にコンビニがあったのですが、そのコンビニでK井さんが買い物をして休憩をしていました。

 

 私もそこで軽食を買って軽く休憩をし、薬局で買ったテーピングをしました。

 

 そのコンビニにから、国道42号は緩やかに登り始めるのですが、その途中に「一石・平方峠」の道標があったので、道標に従い、一石峠の方へと歩いて行きました。

 

(一石・平方峠道標)

 

◇次回予告

 

 この日は、足の痛みに耐えながら、最終的に尾鷲まで歩くのですが、まだまだ大変な道のりが続きます。

 

 次回は、一石峠の続きからお話しさせていただきます。

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ     ペタしてね
にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑧(一石峠⇒始神峠)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行三日目(平成28年5月1日(日))、国道42号沿いの一石・平方峠道標まで辿り着いた私は、K井さんの後を追って、一石峠へと向かいました。

 

◇一石峠

 

(一石・平方峠道標)

 

 国道42号沿いの一石・平方峠道標に従い、JR紀勢本線の踏切を渡り、峠道に入っていくと、すぐに地蔵があります。

 

(一石峠/地蔵)

 

 一石峠の峠道は、峠とはいえ、比較的平坦な道が続きます。

 

(一石峠手前の峠道)

 

 国道42号沿いの一石・平方峠道標から、20分弱で、一石峠へと着きました。

 

(一石峠/一石峠の案内板)

 

 天明2年(1782年)の『巡礼指南車』には、「日和よきときには木の本へ船などあれども乗るべからず、一石坂、古里村へ」と記されており、弘化2年(1845年)の下総国の住人神戸由左衛門の記した『道中日記帳』にも、「長島渡船、賃六文、一石坂という峠、三浦へ」と記されていて、一石峠は、昔から名のある著名な峠であったようです。

 

 一石峠を下ると、道標があり、「新宮まで90km」と書かれています。

 

(道標)

 

 この道標の隣には、「古里海岸 1.1km」、「三浦峠登り口 3.2km」の道標もあります。

 

(三浦峠登り口道標)

 

 この道標に従ってしばらく歩くと、古里温泉があり、民宿の多い集落へと入っていきます。

 

(古里)

 

 古里の集落から、国道42号に再び合流し、少し歩いたところに、「お食事処秀」がありました。

 

(お食事処秀/外観)

 

 既に11時30分で、お腹も減ってきていて、この後の行程を考えると、ここで食事をしておかないと、しばらく食事のできそうなところはなさそうなので、K井さんならここで食事をしたいと言いそうだなぁと考えながら前を通り過ぎようとしたら、何と、店からK井さんが出てきました。

 

 家族連れの客が多く、テーブル席は埋まっていて、駐車場で順番待ちをしているお客さんも多かったので、まさか入れるとは思わなかったのですが、家族連れが多かったことが幸いして、カウンター席が空いていて、K井さんが場所を取ってくださっていたのです。

 

 「お食事処秀」には、刺身天ぷら定食や、トンカツ定食など、いろいろな定食メニューがあるのですが、私もK井さんも、迷わず名物磯めし定食を注文しました。 

 

(お食事処秀/磯めし定食)

 

(お食事処秀/磯めし)

 

 この磯めしは、本当に美味しかったです。

 家族連れの方々が、駐車場で順番待ちをしてまで食べたいのも、頷けます。

 

 食事を終えた私たちは、店を出て、出発の準備をしました。

 

 食事を終えたの12時10分だったのですが、この日は、ここから約28kmの距離を歩いて、尾鷲熊野古道センターまで行かなければならなりませんでした。

 しかも、その尾鷲の手前には、名所である馬越峠があります。

 

 日暮れ後に馬越峠を越えるのはさすがに避けたいので、ここから先は、各自のペースで歩き、尾鷲熊野古道センターで落ち合うことにしました。

 

 私は、足の調子が芳しくなかったので、K井さんだけでも尾鷲の熊野古道センターに辿り着いてもらい、もし、私の足の調子が悪化した場合、無理をせずに途中で電車に乗るなどして、K井さんと合流する選択肢を残したのです。

 

◇佐甫道

 

 「お食事処秀」から5分ほど歩くと、古里トンネルの手前に佐甫道の道標が有り、ここをホテルの跡地の方へと上がっていくと、遊歩道である佐甫道が有ります。

 

(佐甫道入口)

 

 佐甫道には、サボ鼻道展望台があるのですが、ここからの眺望には、心癒されました。

 

(サボ鼻道展望台からの眺望)

 

 あまりに良い景色だったので、K井さんは何枚も写真を撮っていたのですが、私は足に不安があったので、その間に先に進むことにしました。

 

 私は、「お食事処秀」で昼食を取り、だいぶ元気が出て、足の痛みも少し緩和していました。

 しかも、この佐甫道は平坦で歩きやすかったので、良いペースで歩いていたのですが、いつになってもK井さんが追い付いてこないので、不安になってきました。

 

 そのうちに、これまでの遊歩道とは打って変わって、どこが道なのか、判然としないようになってきます。

 

 その先には、市ノ川が有るので、どこかで下って、橋を渡らないといけないはずなので、私は何となく道らしいところを下り、市ノ川が見えるところまで行ったのですが、川まではある程度の高さが有るので、川まで降りて、対岸の壁をよじ登るというわけにも行かなかったので、一旦、来た道を戻ることにしました。

 

 ここまで、どこが道かもわからないようなところを歩いてきたため、戻るときも、かなりの斜度のある所をよじ登って、遊歩道のある方へと戻ってきました。

 

 そうして、何とか元の遊歩道まで戻ったのですが、そのときに、どこで道を間違えたのか、わかりました。

 

 遊歩道の行き止まりに、丸太が横たわっていたのですが、その先も道のようになっていたので、その丸太を飛び越えて歩いてしまったのですが、実はその丸太の所が行き止まりで、その左手に、下りの階段があったのです。

 

 ここで、私は大幅に時間と体力をロスしてしまいました。

 

 尾鷲でK井さんと合流したときに聞いたところ、K井さんは、ハイペースで歩いても私に追いつけないし、見晴らしの良いところに出ても私の姿が見えないので、私が、足が痛いはずなのに、かなりのハイペースで歩いているんだと思ったそうですが、実は、私が道に迷っている間に、どうやら道に迷わずに進んだK井さんに追い抜かれていたのでしたあせる

 

 私が間違えた下りの階段を下ると、若宮神社がありました。

 

(若宮神社)

 

 この若宮神社の先に、市ノ川にかかる橋が有り、その橋を渡って、海岸沿いの堤防を歩いていくと、前日に宿泊した道瀬のむつみ旅館が見えました。

 

 ここから、私たちがこの日の朝に逆側から歩いて来た三浦峠の登山口があるのですが、この日の朝、既に歩いており、足も痛かったので、三浦峠を再び歩かずに、朝、三野瀬駅に向かう際に使ったトンネルを抜けて、ショートカットをすることにしました。

(三浦峠下のトンネル)

 

 ちなみに、尾鷲で合流した際に聞いたところ、K井さんは、再び三浦峠を歩いたとのことでした。

 

 熊野古道伊勢路が国道42号と合流した先に、割烹の宿美鈴からすみ工房があるのですが、ここに来るまで、暑くなってきて、かなりの汗をかいていたので、手前のバス停のところにある自動販売機でジュースを買って一気に飲み干し、10分ほどバス停で休憩してから、再び歩き始めました。

 

  国道42号の脇の歩道をしばらく歩くと、左手に始神さくら広場が見えます。

 

 この始神さくら広場にはトイレがあるので、ここでトイレ休憩をしてから、いよいよ始神峠(はじかみとうげ)へと向かいました。

 

 

◇次回予告

 

 次回、いよいよ始神峠を越えます。

 ここから先、まだまだ孤独な一人旅が続きますあせる

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ   どくしゃになってね…
にほんブログ村

コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー⑤(自己愛性パーソナリティ≠自己愛性人格障害)

$
0
0

  前回もお話しさせていただきましたとおり、家族問題カウンセラーリコラさん(http://ameblo.jp/re-cora/)とのコラボ企画第5弾『トラブルメーカー』は、リレー形式となっております。
 
 私が、『
コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー①(序章)』でリコラさんにバトンを渡し、私が以前書いた『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』シリーズをベースに、リコラさんが記事をアップしてくださいました。

 

 そして、私にバトンが戻って来てから、『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー②(トラブルメーカーの本質)』、『コラボ企画vol.5~トラブルメーカー③(解決の方向性)』、『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー④(トラブルメーカーへの心構え)』をアップし、再びリコラさんにバトンをお渡ししました。

 

 私からのバトンを受けて、アップされたのが下記の記事です。

 

≪リコラさんの記事≫

 

6『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカーが自分と向き合うきっかけ』

 (http://ameblo.jp/re-cora/entry-12287091173.html

 

7『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー 予防的対策』

 (http://ameblo.jp/re-cora/entry-12287094130.html

 

(※6乃至7の数字は、私が便宜上、バトンタッチ前のリコラさんの記事からの続き番でナンバリングしたものです。)

 

 上記6乃至7の記事を経て、再び私にバトンが戻ってきましたので、今回は、それを引き継いで、さらにトラブルメーカーについて、お話をさせていただきたいと思います。

 

◇自己愛性パーソナリティ≠自己愛性人格障害

 

 6コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー 予防的対策』の中で、リコラさんは、「自己愛性パーソナリティ」と「自己愛性人格障害」の違いについて言及しております。

 

 この点、私は、「パーソナリティー障害」と「人格障害」は同義と考えています。

 

 これについては、両者が別物だと論じている識者もいるのですが、日本精神神経学会厚生労働省は、人格否定的な偏見的なニュアンスが強いことから、名称の変更を行ったとされており、両者が別物であるとは考えておりません。

 

 これは、「精神分裂病」を「統合失調症」に、「痴呆症」を「認知症」にそれぞれ変更したのと同じ趣旨です。

 

 この名称変更については、私は異論があるので、それは後ほど述べるとして、パーソナリティ障害人格障害同義で、単なる名称変更に過ぎないというのが通説なのですが、リコラさんの説明をよく見ると、「自己愛性パーソナリティ」と「自己愛性人格障害」の違いとなっていて、前者には、「障害」の単語が含まれていません。

 

 そこに何となく違和感があったのですが、「自己愛性パーソナリティ」と「自己愛性パーソナリティ障害」の区別ではなかったため、両者の区別に言及した意図がいまいち判然とせず、リコラさんに質問をしたところ、実は、その「障害」が脱落していたことに、一番の意味があったということがわかりました。

 

 通説的には、「パーソナリティ障害」と「人格障害」は同義で、単なる名称変更に過ぎないとされているので、それを前提にすると、リコラさんは、「自己愛性パーソナリティ」と「自己愛性パーソナリティ障害」の違いとするか、「自己愛性人格」と「自己愛性人格障害」の違いとして説明した方が、意図が伝わりやすかったと思います。

 

 

 「障害」という単語の有無によって、何が違うかといえば、病気のレベルに至っているか、そのレベルに至らない、個性、人格の1つのヴァージョンに過ぎないかの違いとリコラさんは捉えているようです。

 

 これは、対処法として、病気に至っている「障害」の解決策は、まずは病院に通院することになりますが、病気に至っていない単なる「人格」に過ぎない場合は、病気ではないので、通院によらず、改善する方法も、いろいろあろうかと思います。

 

 そのような意味で、リコラさんは、両者を区別されたのだと思います。

 

 それは、適切な対処法を論じる上で、程度に応じた適する方法を選択する必要があるので、その意味では、有益な区別なんだと思います。

 

 ちなみに、私の個人的意見としては、次回以降に詳述しますが、障害のレベルに至っている人も、障害のレベルに至っていないレベルに過ぎない人も、根底にあるのは、精神的な弱さであり、何らかのトラウマがスイッチとなって、様々な自己愛的な特徴を含む数々の特徴を発現させていると考えているので、根本的な解決策としては、障害のレベルに至っている人も、至っていない人も、あまり変わらないと考えています。

 

 さらに言えば、私は「トラブルメーカーの特徴と人格障害の特徴で重なる部分が多い」と論じていますが、「トラブルメーカー=人格障害(パーソナリティ障害)」という立場を取っていません。

 

 私の立場で、両者の区別を意識して説明し直すと、トラブルメーカーの特徴が、自己愛性人格障害(=自己愛性パーソナリティ障害)の特徴と重なる部分も多いし、自己愛性パーソナリティ(病気に至っていないレベルのもののこと)の特徴と重なる部分も多いという点で、トラブルメーカーは、自己愛性人格障害とも、自己愛性パーソナリティとも、類似性が認められる、という説明になるのですが、あくまで特徴が重なると述べているだけなので、理論的には、トラブルメーカーの改善方法が、自己愛性人格障害の改善方法や自己愛性パーソナリティの改善方法と必ずしも一致することにはならないのです。

 

 もちろん、類似性がある以上、結果的に流用できる点や参考にできる点があることは、否定しません。

 

  したがって、私の立場では、いずれにしろ、自己愛性人格障害(=自己愛性パーソナリティ障害)と、自己愛性パーソナリティを分けて論じる意味は、さほどないということになります。

 

 しかしながら、程度の差に応じた対処法を選択する必要性は、私もあると考えているので、その意味では、リコラさんが「障害」の単語の有無質的な区別をし、それを前提に論を進めた意味は理解しましたし、1つのアプローチ方法として、有りだと思いました。

 

 

◇言葉狩り

 

 さて、トラブルメーカーの本論からはそれるのですが、この言葉の区別について、少し掘り下げたいと思います。

 
リコラさんの区別は、「障害」の単語が付くか否かにあったので、その両者の間には実質的な違いがありますが、前述のように、「人格障害」を「パーソナリティ障害」、「痴呆症」を「認知症」、「精神分裂病」を「統合失調症」と置き換えるのは、言葉の意味の実質は変えず、言葉のイメージから、単語を変えているだけなのですが、こちらについては、私は大きな異論があります。

 

 差別的表現を抹殺する言葉狩りという現象が、一時期流行り、それは、現在でも少なからず続いていますが、差別的表現だとして、特定の表現を断罪すると、その言葉が日常生活から消えていきます。

 

 そうすることで、逆に差別が潜在化し、不健全な歪んだ差別がより深刻に継続することが、多々あると私は考えています。

 

 そもそも、人には個性が有り、違いがあるのです。

 その区別は、厳然と存在しているのに対し、その単なる区別を、差別だと断罪することで、差別が生まれるという側面もあるのです。

 

 もちろん、先に差別が存在したために、そのカテゴリーを示す単語も差別的になるという場合もありますが、そこで、差別が不当であるという認識を共有することが重要で、言葉狩りをして、差別的表現を抹殺すれば、差別がなくなるというのは、甘い幻想に過ぎないのです。

 

 単に臭いものに蓋をしただけで、臭い物は蓋の下に厳然として存在し続け、蓋で臭いがわからなくなったことで、中で黴が生えても、腐っても、気付かない不健全な状態が続き、改善の目すら摘む結果になるのです。

 

 差別が不当であるという認識が広まれば、差別的であったとされる単語、表現は、そのまま形を変えず、差別的でない単語、表現として意味が変わり、そのまま存続し続けることも、多いのです。 

 

 以上から、私は、「パーソナリティー障害」という表現をせず、あえて「人格障害」という表現を使い続けています。

 

 もちろん、例えば映像メディアで発言するような立場にある場合は、自分の信念はさておき、「パーソナリティー障害」という単語に置き換えるべきかと思いますし、立場上、当たり障りのない単語、表現を選択すべき場合もありますので、そのような意図で、単語を置き換えること自体を、私は否定しません。

 

 リコラさんは、あくまで「障害」という単語の有無で、実質的な違いも含めて区別しようとしただけなので、私が述べた言葉狩りの事案とは全く異なりますが、ちょうど今回、「人格障害」と「パーソナリティー障害」、「痴呆症」と「認知症」、「精神分裂病」と「統合失調症」が、いずれも実質的に同じなのに言葉狩り的な趣旨で、言葉を置き換えただけだということに触れたので、前から論じたかった言葉狩りが無意味であるという持論を、この場をお借りして、少しお話しさせていただきましたべーっだ!

 

 横道にそれてしまいましたが、実は、この言葉狩りの構造が、自分の弱さから目を背けて、根本的な解決を困難にさせてしまっているトラブルメーカーの深層心理と、似ていると思い、今回敢えて、横道にそれて論じさせていただきましたあせる

 

 

◇次回予告

 

 今回、少し横道にそれてしまいましたが、横道ついでに、次回も横道にそれて、精神病についてお話しさせていただきたいと思います。

 もちろん、横道にそれたと見せかけて、トラブルメーカーにつながるお話ですニコニコ

 

 


 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 Facebookユーザーの方は、Facebookの「いいね」を押していただけると嬉しいです
 また、『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「弁護士」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓            ↓↓↓ 

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ    ペタしてね
にほんブログ村

コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー④(トラブルメーカーへの心構え)

$
0
0

 コラボ企画の相方であるリコラさんからバトンを引き継いで、前2回にわたって、リコラさんの記事をたたき台に、トラブルメーカーについて、お話をさせていただきましたが、今回、トラブルメーカーの問題性と、トラブルメーカーに対する心構えを述べさせていただき、再びリコラさんにバトンをお渡ししたいと思います。

 

◇トラブルメーカーの問題性

 

 私が以前書いた『沈思黙考Vol.12〜トラブルメーカー』の中で、私は、トラブルメーカーの特徴を抽出するに際し、「義務を履行しない“くせに”、権利を主張する」、「責任を果たさない“くせに”、自由を求める。」というような表現を多用しています。

 

 そこに私のトラブルメーカーに対する負の感情が示されているので、それについて、お話しさせていただきます。

 

 私は、『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』で、トラブルメーカーの特徴を挙げ、そこからさらにトラブルメーカーの本質的要素として、以下の3つの要素を抽出しました。

 

 (a)精神的な弱さ
 
 (b)常に楽な道を選ぶ行動原理
 
 (c)理性の欠如

 

 そして、人格障害(パーソナリティー障害)との類似性を指摘しました。

 

 このトラブルメーカーの本質的要素の位置づけを分析すると、(a)「精神的な弱さ」は、トラブルメーカーの多くの特徴の原因となっているもので、その(a)「精神的な弱さ」を克服しなければ、それを原因とする多くの特徴が改善されず、トラブルメーカーたる資質が軽減されることにはならないという関係にあると考えています。

 

 また、(c)「理性の欠如」も、トラブルメーカーの多くの特徴の原因となっているものと考えています。

 

 これに対し、(b)「常に楽な道を選ぶ行動原理」は、どちらかといえば、他の特徴の結果として生じる現象と位置づけられます。

 

 そうすると、トラブルメーカーとなる人の原因となる要素は、(a)「精神的な弱さ」と(c)「理性の欠如」となります。

 

 この2つの要素のうち、とりわけ(a)「精神的な弱さ」は、家庭環境などによって、後天的に発現するものであることが多いので、本人の責めに帰すべきものとは必ずしもいえない場合も少なくありません。

 

 したがって、トラブルメーカーの原因となった何らかの事象について、私は責めようとは思っていません。

 

 それにもかかわらず、私が、「くせに」という表現を多用したのは、そのトラブルメーカーの原因と、トラブルメーカーの問題性は、分けて考えなければならないと考えており、そして、そのトラブルメーカーの問題性は、トラブルメーカーとなってしまった人自身が、自分でコントロールしようと思えばできるにもかかわらず、それをしていないことによって生じていると考えているからです。

 

 トラブルメーカーの特徴としては、例えば、私は、②「義務・責任を一切果たさず、権利のみを主張する」こと、③「自分の非を正当化し、相手の非のみを殊更に責める」ことを挙げました。

 

 この2つの特徴は、トラブルメーカーの属性、性質自体ではなく、他の属性的な特徴によって発現する結果の事象といえるもので、かつ、それによってトラブルそのものの原因となっているものです。

 

 例えば、信号無視をした張本人A男が、他に信号無視をした人B男を徹底的に責め、B男から「あなたには言われたくない」と言われたところ、A男がB男に対し、「俺はルールを守らなくても良いけど、お前はルールを守れ。」と言われたら、ほとんどの人は怒りますよねはてなマーク

 

 私は、他者の非を責めて良いのは、非難している内容を、自分自身がしていないことが大前提となっていると考えています。

 

 また、権利を行使して相手に義務の履行を求めて良いのは、それに伴う義務を自分自身が履行していることが大前提になっていると考えています。

 

 そのようなやるべきことをやらず、他者にだけ義務の履行を強要するような人は、必ずトラブルとなります。

 

 トラブルメーカーの特徴の1番目に、私は①「過剰な被害者意識」を挙げましたが、この被害者意識が強い人は、被害者であることを最大限に利用して、自分のことを特別扱いすること、自分を大切に扱うこと、自分を正しいと評価することを求めます。

 

 そして、特別扱いの内容として、義務を免除し、権利を絶対的に保障すること求めることが多分にあります。

 

 このような点が、トラブルメーカーの起こすトラブルの原因となっている部分だと私は考えています。

 

 

 ところで、私は、「トラブルメーカー」といえば、それだけで問題のある人間であることが前提となっているように思われるので、その問題性を明示的に指摘してきませんでした。

 

 それにつき、リコラさんが、『”コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー  被害者意識への向き合い方』の中で、被害者意識が過剰な人や、自己愛性パーソナリティー障害の人が、「人からエネルギーを奪おうとするから問題となる」と述べています。

 

 これは、まさにトラブルメーカーの問題性とも一致します。

 

 トラブルメーカーは、まさに、周囲の人々から、“無駄に”エネルギーを奪うから、問題なのです。

 

 

◇トラブルメーカーへの心構え

 

 では、そのようなトラブルメーカーに対し、どのように対処すれば良いのでしょかはてなマーク

 

 前回、そもそもトラブルメーカーに対し、外在的に、トラブルメーカーを改善させるような何らかのアプローチをすることが可能か否かという趣旨の問題提起をさせていただきました。

 

 これについては、リコラさんにバトンをお渡しし、リコラさんのご意見を伺ってから、再びバトンが戻ってきた際に、私見は述べさせていただきますので、今回は、トラブルメーカーの対する心構えについて、私見を述べたいと思います。

 

 リコラさんは、私と一緒に訪れた川越の喜多院の本堂にあった「心外無法」(しんげむほう)という書にヒントを得て、トラブルメーカーに対する心構えを論じています。

 

 心外無法というのは、「心の外に法は無い」、つまり、「善悪、美醜などを決めているのは、全て私たち自身の心である」ということを意味する禅語です。

 

 

 リコラさんの論理展開は、『”コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー トラブルメーカーへの心構え』をじっくりお読みいただくとして、私なりの解釈でかいつまんでいえば、「トラブルメーカーに遭遇してしまったときに、怒りなどの負の感情を抱くのではなく、トラブルメーカーとなってしまった背景にも想いを馳せ、トラブルメーカーと遭遇して困っている自分自身の成長の糧を与えてくれたことに、感謝の気持ちを抱くことが肝要」であると論じていると解釈しました。

 

 私が『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』で、トラブルメーカーの特徴を挙げ、本質的要素を分析したのは、トラブルメーカーの特徴を知ることで、トラブルに巻き込まれないようにする知恵を身につけることと、自分自身がトラブルメーカーにならないように自戒を込めてであると述べました。

 

 もし、トラブルメーカーに遭遇し、怒りの感情をそのまま爆発させてしまえば、自分自身もトラブルメーカーになってしまうわけです。

 

 その意味で、リコラさんの論じた心構えは、自分自信がトラブルメーカーにならないための対処法として、非常に的を得たものであると思いました。

 

 

◇心外無法

 

 ところで、リコラさんは、『心外無法』という禅語を、的確に理解し、論を展開されていましたが、この『心外無法』という言葉は、誤解されかねない言葉でもあるので、その点を指摘させていただきます。

 

 『心外無法』は、善悪、美醜などを決めているのは、全て私たち自身の心であるという意味の禅語なので、もしかしたら、「トラブルメーカーは実はトラブルメーカーではない。そのように思ってしまう自分が、悪しき心を持っているから、そのように見えてしまうのだ。自分が間違っていたのだ。」と考えることを勧めているように誤解される方もいるかもしれませんが、これは違います。

 

 

 この『心外無法』という言葉は、『心頭滅却すれば、火もまた涼し』という言葉と、似た一面があると思います。

 

 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』とは、自分の心の持ちようで、苦しみも苦しみでなくなることを表しています。

  

 あくまで、心の持ちようで、感じ方が変わると言っているだけで、火が水になるわけではありませんし、火がなくなるわけでもありません

 

 同じように、自分がトラブルメーカーの問題性を問題と感じなくなっても、トラブルメーカーの客観的な問題性が消えてなくなるわけではなく、トラブルメーカーが、自分以外の第三者に迷惑をかけ続ける可能性も消えません。

 

 したがって、リコラさんの掲げた対処法は、あくまで、トラブルメーカーに遭遇した時に、心の持ちようで、トラブルメーカーに接する際の気持ちの負担を軽くすることに意味があると私は思います。

 

 

 また、『心外無法』を、あるがままを全て受け入れるという意味に捉えてしまうと、それもまた違うと私は考えます。

 

 前述のように、トラブルメーカーの問題性は、客観的には残ります。

 

 そして、そのあるがままを受け入れても、周りの人々がそれによって息苦しさを味わう可能性が残るのは同じです。

  ちなみに、私は、そのような場合は、やはり正直に生きている周りの人たちを助けたいと思います。

 

 そのような意味で、リコラさんは、『心外無法』を的確に理解した上で、あるべき解決の方向性として、非常にしっくりくるものを示されたと私は思います。

 

 

◇次回予告

 

 ここで、再びリコラさんにバトンをお返しし、リコラさんに、さらにトラブルメーカーについて、論を展開していただきたいと思います。

 

 そして、再び、私にバトンが戻って来た際に、リコラさんの記事をご紹介しつつ、私の論を展開させていただきたいと思います。


 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 Facebookユーザーの方は、Facebookの「いいね」を押していただけると嬉しいです
 また、『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「弁護士」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓            ↓↓↓ 

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ    ペタしてね
にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑨(始神峠⇒相賀神社)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行三日目(平成28年5月1日(日))、始神さくら広場まで辿り着いた私は、いよいよ始神峠(はじかみとうげ)を登り始めました。

 

◇始神峠

 

 

(始神峠/道標)

 

 始神峠(はじかみとうげ)という名前は、とても厳かな響きがあるのですが、始神峠の名前は、サンショウウオを意味する(はじかみ)に由来し、それに始神という漢字をあてたようです。

 

 

 発電所を右手に眺めながら進むと、小さな橋の手前に、「新宮まで82km」の道標があります。 

 

(道標) 

 

 ここからしばらくは緩やかな登りが続きます。

 

(始神峠/峠道)

 

 始神峠の100m置きにある道標の分母は、16で、分母が18のツヅラト峠三浦峠よりも、200mほど距離が短いことになります。

 

(始神峠/道標)

 

 小さな橋の手前の「新宮まで82km」の道標から25分ほどで、始神峠に着きました。 

 

(始神峠/始神峠の案内板)

 

 始神峠は、熊野古道伊勢路の峠の中でも、熊野市の松本峠と並ぶ景勝の峠とされているだけあって、この始神峠からの眺めは、とても奇麗でした。

 

(始神峠からの眺望)

 

 始神峠から、しばらく緩やかな下りが続きます。 

 

(始神峠/峠道)

 

 始神峠からしばらく歩くと、明治道に合流します。

 古くからの巡礼の道は、江戸時代に改修され、江戸道と呼ばれているのですが、明治時代になって、主に物資を運ぶため、大八車が通れるような道が整備されました。

 この明治時代に整備された道が、明治道です。

 

 大八車が通れる道なので、明治道は、江戸道に比べ、道幅が広く、傾斜が緩やかです。

 

 明治道と合流してしばらく歩くと、野面乱層積(道の崩壊を防止するために自然石を積み上げた石垣)が見えます。

 

 この野面乱層積の先に、明治道江戸道の分岐があります。

 

 私の持っていた『熊野古道伊勢路図絵』では、江戸道は、そのまま山を下り、すぐに国道42号に出て、そのまま国道42号をしばらく歩くルートになっているのに対し、明治道の方が、林道のような道を大舟川に、ぶつかる辺りまで歩いてから国道42号に合流するルートになっていて、しかも、明治道の方が推奨ルートになっていたので、私は迷わず明治道を歩くことにしました。


 私は、元々急な下り道が苦手な上に、この日は、足の裏の肉刺がつぶれかけ、足の甲にも痛みが走っていたので、急な下りは避けたかったのと、舗装された国道を歩くのはあまり面白くなかったからです。


 

 ちなみに、『熊野古道伊勢路図絵』をよく見ると、「世界遺産として登録されているのは江戸道」と小さな字で書かれており、後から聞いたところ、K井さんは、江戸道の方を歩いたそうです。

 

 明治道を歩いていくと、「国道42号線 1.2km 約20分」の道標が見えました。

 

(始神峠/道標)

 

 この道標の少し先に、宮谷池がありました。

 

(始神峠/宮谷池)

 

 この宮谷池の近くで、道を横断しているに遭遇。

 体長1mほどのシマヘビでした。

 

 宮谷池から少し歩くと、左手にトイレがあるのですが、その隣の民家の敷地内に、東屋があり、ここで休憩できるのですが、この東屋は、その熊野古道伊勢路を歩く人々のことを大切に思ってくださっているこの民家の方の手作りによるものだそうです。

 

 私も、せっかくなのでここで休憩したかったのですが、夕暮れ前に馬越峠を越えなくてはいけなかったので、先を急ぐことにしました。

 

 その東屋から用水路を右手に眺めながら進んでいくと、大舟川にぶつかります。

 

 始神峠の名前の由来は、サンショウウオを意味する(はじかみ)であると先ほどお話ししましたが、この大舟川の上流に、ブチサンショウウオが多く生息しているそうです。

 

 この大舟川には、もちろん橋が架かっているので、その橋を渡ったのですが、熊野古道伊勢路図絵では、橋の手前で、対岸に出ることになっていました。

 

 私は意味が分からず、とりあえず橋を渡ったのですが、後から調べたら、本来の熊野古道伊勢路は、この川の中の道を歩かないと行けなかったようです。

 確かに川の中に、川を渡れそうな足場があったのですが、それは、地元の人々が使っている道だと思ってしまい、熊野古道伊勢路だとは思わなかったのです。

 

◇相賀

 

 大舟川を渡り、国道42号を渡り、馬瀬の集落へと入っていきました。

 

 始神峠を越え、喉も乾いていたので、馬瀬の集落の自動販売機でジュースを買い、一気に飲み干し、再び歩き始めました。

 

 ここから、JR紀勢本線の踏切を越えて、しばらく線路の近くを歩き、突き当りを右折して踏切を越えたところで、再び国道42号にぶつかります。

 この交差点は横断歩道がなく、地下道があるので、地下道を使って反対側に渡り、道標に従って紀北町立上里小学校の方へと向かいます。

 

 その上里小学校の先の船津川に架かる両郷橋を渡り、左折して再び旧道へと入ります。

 

(船津川に架かる両郷橋)

 

 ここには、昭和30年代頃まで木材を運んだトロッコ道と旧道が交差する十字路があると『熊野古道伊勢路図絵』には書かれていて、実際、その十字路があったのですが、何となく写真を撮りそびれてしまいました。

 

 

(上里付近)

 

 旧道を少し歩くと、再び国道42号に合流し、そこからしばらく国道42号沿いを歩いて、中里の集落から地図に従って旧道に入ると、八重垣神社があります。

 

(八重垣神社)

 

 八重垣神社の主祭神は伊邪那岐大神とされていますが、元々は中里神社と呼ばれており、この集落の産土神を祀る神社であったようです。

 

 この八重垣神社に着いたのが、16時4分でした。

 

 この八重垣神社から、旧道に入っては国道42号に合流し、再び旧道に入るのを繰り返すのですが、旧道沿いには、八重垣神社から順に、龍谷寺八雲神社秋葉神社紀北町立船津小学校永泉寺八重垣神社などが建ち並んでいます。

 

 二つ目の八重垣神社を過ぎ、再び国道42号に合流すると、海山ICが有り、紀勢自動車道の下を潜って、相賀のJAの先を、道標に従って旧道に入ると、相賀神社が有り、その後ろに、雲祥寺相賀幼稚園真興寺が建ち並んでいます。

 

(相賀神社)

 

 相賀神社に着いたのは、16時54分でした。

 

 

 中里の集落の最初の八重垣神社から、相賀神社まで、約5kmの道のりで、『熊野古道伊勢路図絵』によると、平均所要時間は75分と書かれていたのですが、50分で歩いていたのです。

 

 私は、始神峠を下り始めた辺りから、不思議と足の痛みが和らいだので、傾斜の少ないエリアでは、2本のストックをたたんで片手に持ち、ストックを使わず、かなりのハイペースで歩いていたのです。

 

 もちろん、ストックを使った方が、肉体的にも楽ですし、スピードも維持できるのですが、その分、腕の負担が増すので、舗装された道では、ストックをたたんで歩くこともしばしばあったのです。

 

 そのようにして、ここまで良いペースで来ていたのですが、実は、この相賀神社の近くには、JR紀勢本線の相賀駅があります。

 

 紀伊長島から相賀まで、『熊野古道伊勢路図絵』によると約25kmあるのですが、この日は、三野瀬駅から三浦峠を越えて道瀬のむつみ旅館までの約3kmと、杣谷橋から荷坂峠を越えて紀伊長島までの約6kmも加え、既に約34kmを歩いていました。

 

 そして、この相賀神社から、目的地の尾鷲熊野古道センターまで、さらに約10km近い道のりが残っていたのです。

 

 JR紀勢本線の相賀駅から尾鷲駅まで、電車に乗れば、たったの8分で着きます。

 

 その悪魔の囁きが一瞬頭を過ぎったのですが、私はすぐにそれを打ち消して、ここから馬越峠へ向かうことにしました。

 

 ここで電車に乗って尾鷲駅まで行った場合、翌朝、相賀駅まで電車で戻り、そこから馬越峠を越えて、さらに標高627m八鬼山を登り、そこからさらにいくつもの峠を越えて、熊野市駅まで歩くことになります。しかし、それは体力的にきついと思いました。


 また、相賀駅まで、無心ハイペースで歩き続けているうちに、不思議と足の痛みも疲れも忘れていたので、そのままの勢いで、馬越峠も踏破できそうな気がしたのです。

 

 実はこの選択は、翌日になって思えば、正解でした。

 

◇次回予告

 

 次回、いよいよ馬越峠越えをしますが、これが、また大変でした。

 

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ     ペタしてね      
にほんブログ村

 婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑩(相賀神社⇒尾鷲)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行三日目(平成28年5月1日(日))、JR紀伊本線の相賀駅の近くにある相賀神社まで辿り着いた私は、馬越峠へと向かいました。

 

◇馬越峠

 

 相賀神社の横には、雲祥寺相賀幼稚園真興寺が建ち並んでいて、真興寺を過ぎた突き当りを右折すると、銚子川に架かる銚子橋に着きます。

 

 

(銚子橋からの眺め)

 

 『熊野古道伊勢路図絵』によると、熊野古道伊勢路は銚子橋を渡らず、銚子川沿いを歩くルートになっていたので、私は地図通りに歩き始めたのですが、銚子橋に着いたのが17時だったので、日が暮れる前に馬越峠を越えたいと思った私は、テントやシュラフ(寝袋)などが入った10kg近いザックを背負ったまま、走り始めました。

 

 足の裏には大きな肉刺ができていて、足の甲にも膝にも痛みが走っていたので、10kg近いザックを背負ったまま走ることができるような状態ではなかったのですが、ここまで無心でハイペースで歩いてきて、不思議と足の痛みが和らいでいたこともあって、なぜかしばらくの間走ることができました。

 

 しばらく小走りで走っていると、銚子川に走る便ノ山橋へと着きました。

 その先には、宝泉寺便ノ山神社があるようですが、『熊野古道伊勢路図絵』では、熊野古道伊勢路は便ノ山橋を渡ることになっていたので、私は寄り道をせずにそのまま便ノ山橋を渡りました。

 

 便ノ山橋を渡り、JR紀勢本線の踏切を越えると分岐があるのですが、地図では左の道を行くことになっていました。


 後で『熊野古道伊勢路図絵』を見たら、この分岐を右手に行くと、平成16年に発掘された石畳の道もあったそうなのですが、私は、推奨ルートに従って、左に曲がりました。

 

 その後、国道42号に出る手前で、右折する道があり、そこを登っていくと、国道42号沿いの馬越峠(まごせとうげ)の入口に出るはずなのですが、私はその道が見つからず、少し迷ってしまいました。

 

 右折する道が、民家の方に向かっていて、私道っぽかったので、そこで良いのか迷ってしまったのですが、実はその民家の方に向かう道が正解だったようです。

 

 少し迷った後、結局その道を登っていったところ、国道42号にぶつかり、その向かいに、馬越峠看板がありました。

 

(馬越峠/入口)

 

 馬越峠入口に着いたのが、ちょうど17時30分でした。

 馬越峠の入口から、石畳が始まります。

 

 馬越峠入口から10分ほどで夜泣き地蔵に着きました。

 

 

(馬越峠/夜泣き地蔵)

 

 元々、明治時代までは旅人の無事を祈る石地蔵だったそうですが、地区の人々が子供の夜泣き封じを祈って、いつしか「夜泣き地蔵」と呼ぶようになったそうです。

 

 夜泣き地蔵からさらに少し登ると、峠道の脇に小川が流れているところなどもあります。 

 

(馬越峠/小川)

 

 馬越峠は、入口からずっと奇麗な石畳が続くのですが、夜泣き地蔵を過ぎ、石橋を渡った辺りから、傾斜が急になります。 

 

(馬越峠/石畳)

 

 

馬越峠入口に着いたのが17時30分と遅かったので、少し不安だったのですが、峠道を登っていくと、馬越峠を下ってくる人ばかりでなく、登っていくカップルや若い学生らしいグループもいたので、少し安心していたのですが、ただ、よくよく見ると、皆、軽装でした。

 

 馬越峠は、美しい石畳が続く名所なので、近くにある「道の駅海山」に車を停めて、馬越峠まで登って戻るか、もう少し余裕があれば、馬越峠から標高522mの天狗倉山まで登り、馬越峠入口まで戻るルートでハイキングをする人が多いようです。

 

 

 夜泣き地蔵から15分ほどで、開けたところに出たので、馬越峠が近いと思ったのですが、行ってみると、「馬越峠 690m 約20分」と書かれていました。

 

(馬越峠/道標)

 

 その辺りは、木が伐採されていて明るかったので、開けて見えただけだったのです。

 ここに着いたのが17時50分過ぎで、辺りもまだ明るく、この辺りでもまだ人がチラホラいたので、まだ時間的に余裕があると思い、ここでザックを降ろして、水を飲み、5分ほど休憩してから、再び馬越峠に向けて登り始めました。

 

(馬越峠/峠道)

 

 しばらく急な登りが続き、ザックの重さで肩が痛くなってきて、少しペースが落ちてしまいましたが、何とか馬越峠まで辿り着くことができました。


 馬越峠のところには分岐が有り、可涼園桃乙句碑がありました。 

 

(可涼園桃乙の句碑)

 

 可涼園桃乙(かりょうえんとうおつ)は、江戸時代末期の俳人で、夜桜見物の時に、次の句を詠んだそうです。

 

夜は花の上に音あり山の水

  by 可涼園桃乙

 

 分岐を左折すると、標高522mの天狗倉山に行けるのですが、夕暮れが迫っているので、私は、馬越峠からの景色を写真に収め、天狗倉山に寄り道はせずに、そのまま熊野古道伊勢路のルートに従って、尾鷲へと向かいました。

 

(馬越峠からの眺望)

 

 馬越峠から10分ほど歩くと、桜地蔵があります。

 

(桜地蔵)

 

 この桜地蔵は、御堂を改築した畔地安兵衛氏にちなんで、『安兵衛地像』とも呼ばれているそうです。

 

 

 写真からも分かるように、馬越峠を過ぎてから、一気に日が落ち始め、辺りは若干薄暗くなってきています。

 

 馬越峠までは人がけっこういたのに、やはり馬越峠入口まで戻る人ばかりで、尾鷲側に抜ける人は、おそらくもっと早い時間に馬越峠を越えていたようで、馬越峠を越えてから、人影一つ見えなくなりました。

 

 桜地蔵からさらに10分ほど歩くと、行者堂があり、そのお向かいにトイレと道標が有りました。

 

 「新宮まで66km」と有り、その裏には「伊勢まで100km」と書かれていました。 

 

(馬越峠/道標)

 

 写真は、明度を上げたものをアップしていますが、ここについた時点で既に18時45分で、辺りはだいぶ暗くなっていました。

 

 そこから少し歩くと、墓地が有り、その墓地の間の階段を歩いていきます。

 

 外灯の明かりがあり、犬の散歩をしている地元の人などもいたのですが、さすがに19時前の夕闇迫る中で墓地の間を歩くのは、薄気味悪かったです。

 

 墓地を抜け、車道のガードをくぐると、金剛寺尾鷲神社があるのですが、既に日も落ちていたので、写真を諦めて、そのまま『熊野古道伊勢路図絵』と道標に従がって、街中を歩いて行きました。

 

◇熊野古道センター

 

 尾鷲の街に入ってビックリしたのですが、尾鷲の街は、外灯やネオンが少なく、民家も、雨戸を閉めている家が多いので、19時過ぎでも、街は暗く、人通りはほとんどありませんでした。

 

 

 そのような中、スマホを見ると、K井さんからメッセージが入っていました。

 

 近くにコンビニはあまりなく、熊野古道伊勢路のルートから少し外れたところにあるスーパーで、お弁当などを売っているとのことでした。

 

 私は、K井さんが送ってくれた地図を頼りにそのスーパーまで行き、お弁当やお酒などを買い、熊野古道センターへと向かいました。

 

 途中、車はよく通るのですが、ほとんど人通りがなく、相変わらず外灯も少ないので、不審者がいないか、少しキョロキョロしながら歩いていたのですが、中川橋を渡ろうとしたところで、暗闇の中を、ジャージでランニングをしている中学生のカップルか、兄妹という感じの男女とすれ違いました。

 

 中学生でも、走っていられるくらい、安全な街なんだと少し安心した矢先に、今度は向こうから30代ぐらいの男性が一人で歩いて来て、すれ違いました。

 

 その男性は、若干挙動不審な感じがしたのですが、おそらく、その男性も、暗がりで私と遭遇して、不安がっていたのかもしれません。

 

 私は、登山用のザックを背負い、登山着を着て、ストックを持って、20時前後に尾鷲の街を歩いているので、傍から見れば、私も十分怪しい人なんだと思います。

 

 そこからさらに暗い夜道を歩いて、熊野古道センターに向かいました。

 

 熊野古道センターの先に、夢古道の湯という温浴施設があり、K井さんはそこでお風呂に入って待っているとのことだったのですが、熊野古道センターに着いても、真っ暗で、そのような温浴施設がありそうな気配がなく、かなり不安になりました。


 しかし、グーグルマップで指し示す方向に車が時々入っていっていたので、そちらの方に向かうと、暗闇の中に煌々と電気が点いている夢古道の湯がありました。

 

 中でK井さんと合流し、お風呂に入りました。

 

 足の裏にできた大きな肉刺が少し痛かったのですが、朝5時30分から、20時過ぎまで歩き続けた体に、このお風呂は最高のご褒美でした。

 

 お風呂を出た私たちは、熊野古道センターの近くでテント泊をさせていただくことにしました。

 

 私もK井さんも、それぞれテントを持ってきていたのですが、K井さんは、テントポールを自宅に忘れてしまったようで、テントを張ることができませんでした。


 私のテントも大きなテントではないので、良い歳の男性2人が身を寄せ合って狭いテントで寝るわけにもいかず、K井さんは、何と、マットの上にシュラフ(寝袋)を置き、さらにそこにインナーテント(テントの内側に張るシートのこと)などを掛けて、そのまま寝ることにしたのです。

 

 K井さんも私も、雪山でも使えるようなシュラフを持ってきていたので、テントを張らなくても、寒くはなかったようです。

 

 そんなトラブルもありつつ、寝る準備をしてから、スーパーで買ったお弁当を食べ、缶酎ハイを飲み、荷物の整理をしてから、寝ることにしました。

 

 K井さんは、テントを張れなかったのに、あっという間に眠りにつきましたが、私は、テントを張っているのに、普段から夜更かしが多いことに加え、テント泊が慣れないのか、全く寝付けず、スマホで友達のSNSの投稿やブログをチェックしたりしてから、寝ました。

 

◇次回予告

 

 翌朝、5時過ぎに起きた私たちは、前日にスーパーで買っておいた朝食を食べ、最初の目的地である八鬼山へと向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ   ペタしてね
にほんブログ村

コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー④(トラブルメーカーへの心構え)

$
0
0

 コラボ企画の相方であるリコラさんからバトンを引き継いで、前2回にわたって、リコラさんの記事をたたき台に、トラブルメーカーについて、お話をさせていただきましたが、今回、トラブルメーカーの問題性と、トラブルメーカーに対する心構えを述べさせていただき、再びリコラさんにバトンをお渡ししたいと思います。

 

◇トラブルメーカーの問題性

 

 私が以前書いた『沈思黙考Vol.12〜トラブルメーカー』の中で、私は、トラブルメーカーの特徴を抽出するに際し、「義務を履行しない“くせに”、権利を主張する」、「責任を果たさない“くせに”、自由を求める。」というような表現を多用しています。

 

 そこに私のトラブルメーカーに対する負の感情が示されているので、それについて、お話しさせていただきます。

 

 私は、『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』で、トラブルメーカーの特徴を挙げ、そこからさらにトラブルメーカーの本質的要素として、以下の3つの要素を抽出しました。

 

 (a)精神的な弱さ
 
 (b)常に楽な道を選ぶ行動原理
 
 (c)理性の欠如

 

 そして、人格障害(パーソナリティー障害)との類似性を指摘しました。

 

 このトラブルメーカーの本質的要素の位置づけを分析すると、(a)「精神的な弱さ」は、トラブルメーカーの多くの特徴の原因となっているもので、その(a)「精神的な弱さ」を克服しなければ、それを原因とする多くの特徴が改善されず、トラブルメーカーたる資質が軽減されることにはならないという関係にあると考えています。

 

 また、(c)「理性の欠如」も、トラブルメーカーの多くの特徴の原因となっているものと考えています。

 

 これに対し、(b)「常に楽な道を選ぶ行動原理」は、どちらかといえば、他の特徴の結果として生じる現象と位置づけられます。

 

 そうすると、トラブルメーカーとなる人の原因となる要素は、(a)「精神的な弱さ」と(c)「理性の欠如」となります。

 

 この2つの要素のうち、とりわけ(a)「精神的な弱さ」は、家庭環境などによって、後天的に発現するものであることが多いので、本人の責めに帰すべきものとは必ずしもいえない場合も少なくありません。

 

 したがって、トラブルメーカーの原因となった何らかの事象について、私は責めようとは思っていません。

 

 それにもかかわらず、私が、「くせに」という表現を多用したのは、そのトラブルメーカーの原因と、トラブルメーカーの問題性は、分けて考えなければならないと考えており、そして、そのトラブルメーカーの問題性は、トラブルメーカーとなってしまった人自身が、自分でコントロールしようと思えばできるにもかかわらず、それをしていないことによって生じていると考えているからです。

 

 トラブルメーカーの特徴としては、例えば、私は、②「義務・責任を一切果たさず、権利のみを主張する」こと、③「自分の非を正当化し、相手の非のみを殊更に責める」ことを挙げました。

 

 この2つの特徴は、トラブルメーカーの属性、性質自体ではなく、他の属性的な特徴によって発現する結果の事象といえるもので、かつ、それによってトラブルそのものの原因となっているものです。

 

 例えば、信号無視をした張本人A男が、他に信号無視をした人B男を徹底的に責め、B男から「あなたには言われたくない」と言われたところ、A男がB男に対し、「俺はルールを守らなくても良いけど、お前はルールを守れ。」と言われたら、ほとんどの人は怒りますよねはてなマーク

 

 私は、他者の非を責めて良いのは、非難している内容を、自分自身がしていないことが大前提となっていると考えています。

 

 また、権利を行使して相手に義務の履行を求めて良いのは、それに伴う義務を自分自身が履行していることが大前提になっていると考えています。

 

 そのようなやるべきことをやらず、他者にだけ義務の履行を強要するような人は、必ずトラブルとなります。

 

 トラブルメーカーの特徴の1番目に、私は①「過剰な被害者意識」を挙げましたが、この被害者意識が強い人は、被害者であることを最大限に利用して、自分のことを特別扱いすること、自分を大切に扱うこと、自分を正しいと評価することを求めます。

 

 そして、特別扱いの内容として、義務を免除し、権利を絶対的に保障すること求めることが多分にあります。

 

 このような点が、トラブルメーカーの起こすトラブルの原因となっている部分だと私は考えています。

 

 

 ところで、私は、「トラブルメーカー」といえば、それだけで問題のある人間であることが前提となっているように思われるので、その問題性を明示的に指摘してきませんでした。

 

 それにつき、リコラさんが、『”コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー  被害者意識への向き合い方』の中で、被害者意識が過剰な人や、自己愛性パーソナリティー障害の人が、「人からエネルギーを奪おうとするから問題となる」と述べています。

 

 これは、まさにトラブルメーカーの問題性とも一致します。

 

 トラブルメーカーは、まさに、周囲の人々から、“無駄に”エネルギーを奪うから、問題なのです。

 

 

◇トラブルメーカーへの心構え

 

 では、そのようなトラブルメーカーに対し、どのように対処すれば良いのでしょかはてなマーク

 

 前回、そもそもトラブルメーカーに対し、外在的に、トラブルメーカーを改善させるような何らかのアプローチをすることが可能か否かという趣旨の問題提起をさせていただきました。

 

 これについては、リコラさんにバトンをお渡しし、リコラさんのご意見を伺ってから、再びバトンが戻ってきた際に、私見は述べさせていただきますので、今回は、トラブルメーカーの対する心構えについて、私見を述べたいと思います。

 

 リコラさんは、私と一緒に訪れた川越の喜多院の本堂にあった「心外無法」(しんげむほう)という書にヒントを得て、トラブルメーカーに対する心構えを論じています。

 

 心外無法というのは、「心の外に法は無い」、つまり、「善悪、美醜などを決めているのは、全て私たち自身の心である」ということを意味する禅語です。

 

 

 リコラさんの論理展開は、『”コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー トラブルメーカーへの心構え』をじっくりお読みいただくとして、私なりの解釈でかいつまんでいえば、「トラブルメーカーに遭遇してしまったときに、怒りなどの負の感情を抱くのではなく、トラブルメーカーとなってしまった背景にも想いを馳せ、トラブルメーカーと遭遇して困っている自分自身の成長の糧を与えてくれたことに、感謝の気持ちを抱くことが肝要」であると論じていると解釈しました。

 

 私が『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』で、トラブルメーカーの特徴を挙げ、本質的要素を分析したのは、トラブルメーカーの特徴を知ることで、トラブルに巻き込まれないようにする知恵を身につけることと、自分自身がトラブルメーカーにならないように自戒を込めてであると述べました。

 

 もし、トラブルメーカーに遭遇し、怒りの感情をそのまま爆発させてしまえば、自分自身もトラブルメーカーになってしまうわけです。

 

 その意味で、リコラさんの論じた心構えは、自分自信がトラブルメーカーにならないための対処法として、非常に的を得たものであると思いました。

 

 

◇心外無法

 

 ところで、リコラさんは、『心外無法』という禅語を、的確に理解し、論を展開されていましたが、この『心外無法』という言葉は、誤解されかねない言葉でもあるので、その点を指摘させていただきます。

 

 『心外無法』は、善悪、美醜などを決めているのは、全て私たち自身の心であるという意味の禅語なので、もしかしたら、「トラブルメーカーは実はトラブルメーカーではない。そのように思ってしまう自分が、悪しき心を持っているから、そのように見えてしまうのだ。自分が間違っていたのだ。」と考えることを勧めているように誤解される方もいるかもしれませんが、これは違います。

 

 

 この『心外無法』という言葉は、『心頭滅却すれば、火もまた涼し』という言葉と、似た一面があると思います。

 

 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』とは、自分の心の持ちようで、苦しみも苦しみでなくなることを表しています。

  

 あくまで、心の持ちようで、感じ方が変わると言っているだけで、火が水になるわけではありませんし、火がなくなるわけでもありません

 

 同じように、自分がトラブルメーカーの問題性を問題と感じなくなっても、トラブルメーカーの客観的な問題性が消えてなくなるわけではなく、トラブルメーカーが、自分以外の第三者に迷惑をかけ続ける可能性も消えません。

 

 したがって、リコラさんの掲げた対処法は、あくまで、トラブルメーカーに遭遇した時に、心の持ちようで、トラブルメーカーに接する際の気持ちの負担を軽くすることに意味があると私は思います。

 

 

 また、『心外無法』を、あるがままを全て受け入れるという意味に捉えてしまうと、それもまた違うと私は考えます。

 

 前述のように、トラブルメーカーの問題性は、客観的には残ります。

 

 そして、そのあるがままを受け入れても、周りの人々がそれによって息苦しさを味わう可能性が残るのは同じです。

  ちなみに、私は、そのような場合は、やはり正直に生きている周りの人たちを助けたいと思います。

 

 そのような意味で、リコラさんは、『心外無法』を的確に理解した上で、あるべき解決の方向性として、非常にしっくりくるものを示されたと私は思います。

 

 

◇次回予告

 

 ここで、再びリコラさんにバトンをお返しし、リコラさんに、さらにトラブルメーカーについて、論を展開していただきたいと思います。

 

 そして、再び、私にバトンが戻って来た際に、リコラさんの記事をご紹介しつつ、私の論を展開させていただきたいと思います。


 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 Facebookユーザーの方は、Facebookの「いいね」を押していただけると嬉しいです
 また、『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「弁護士」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓            ↓↓↓ 

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ    ペタしてね
にほんブログ村


婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑪(尾鷲⇒三木里ビーチ)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行四日目(平成28年5月2日(月))、熊野古道センターの近くでテント泊した私たちは、5時に起床しました。

 

◇熊野古道センター

 

(熊野古道センター)

 

(熊野古道センター)

 

 熊野古道伊勢路旅行初日は、元々栃原の適当な場所でテント泊をする予定でしたが、様々な偶然と、出会った方々のご好意が重なり、ある施設の空き部屋に宿泊させていただくことができたので、三日目にして、この旅初のテント泊となったのですが、私はテント泊に慣れておらず、実はあまり寝られませんでした。

 

 そのことが、後からじわじわと効いてきます。

 

 そんなわけで、熟睡できずにボーっとした寝起きの中で、出発の準備を整え、前日に尾鷲のスーパーで買った朝食を食べました。

 

 K井さんよりも先に準備が整ったので、足の裏にできた肉刺や膝の痛みのある私は、先に出発することにしました。

 

 

◇八鬼山

 

 熊野古道センターから数分歩くと、道標が見え、熊野古道伊勢路のルートに合流します。

 

(八鬼山/道標)

 

 道標には、「八鬼山峠(頂上) 4,340m 約140分」と書かれてるのですが、その横には、「民謡・尾鷲節『道標歌碑』」がありました。

 

(八鬼山/尾鷲節「道標歌碑」)

 

 尾鷲節「道標歌碑」には、尾鷲節の説明があるのですが、それによると、尾鷲節の歌詞には、尾鷲市向井側の若い大工と、三木里側の娘との悲恋を歌った次のような一節があるとのことです。

 

♪ままになるならあの八鬼山を鍬でならして通わせる♪

 

 そんな尾鷲節にも歌われた八鬼山は、標高こそ627mですが、西国一の難所とも言われており、身が引き締まります。

 

 尾鷲節「道標歌碑」から少し歩くとトイレがあったので、その後の八鬼山登山に備え、トイレ休憩をしていたところで、K井さんが追い付きました。

 

 そのトイレの先の分岐の左手が、八鬼山登り口です。

 

 八鬼山登り口から10分ほど歩くと、奇麗な谷川が見えます。

 

 

(八鬼山/谷川)

 

 その谷川の先で右手を見ると、開けていて、尾鷲の街並みが見えました。

 

(八鬼山/尾鷲の眺望)

 

 谷川を渡って数分歩くと、少し広くなっているところに出ます。

 

(八鬼山/町石及び籠立場)

 

 この少し広くなっている場所は、紀州藩主巡見使などが街道を通行するときに、乗っているを止めて休憩した場所で、籠立場と呼ばれています。

 

 記録によると、享保7年(1722年)に紀州藩第6代藩主徳川宗直、宝暦11年(1761年)に紀州藩第7代藩主徳川宗将(とくがわむねのぶ)、寛政11年(1799年)に紀州藩第8代藩主徳川重倫(とくがわしげのり)がそれぞれ八鬼山を越えたそうです。

 

 籠立場の谷川に架かる橋を渡ると、林道にぶつかります。

 

(八鬼山/橋)

 

 林道を横切ってさらに進むと、石段が始まります。

 

(八鬼山/石畳)

 

 石段の先は、石畳になっています。

 

(八鬼山/石畳)

 

 石畳は奇麗なのですが、私は何もない土の山道の方が歩きやすくて好きです。

 石畳は、が生えていて、滑りやすく、浮石といって、地面と接地しておらず、石と石の間に挟まっている石があり、その上に足を乗せると、石が外れて、転ぶこともあるので、けっこう危険なのです。

 

 私は、足の痛みもあったので、苦手な石畳を慎重に登っていったため、この辺りからK井さんとの間が開いていってしまい、再び孤独な一人旅が始まりました。

 

 石畳をしばらく登っていくと、八鬼山最大の難所『七曲がり』の案内板と、『難所・七曲がり(上) 280m 約15分』という道標がありました。

 七曲りは、急勾配のため、九十九折れ(つづらおれ)の道になっている個所のカーブが7つあるので、七曲がりと呼ばれていて、この辺りの地名にもなっています。

 

(八鬼山/七曲り道標)

 

 この道標から、280mの間、かなりの急勾配が続くのですが、所要時間が約15分と書いてあることからもわかるように、ここはかなりきつい場所でした。

 

 江戸時代の旅人の日記には、次のように記されているそうです。

 

「八鬼山峠とて西国第一の難所を登る。上り五拾丁、下り三十八丁、聞きしに勝る難場なり。石ばかりの上を歩行する・・・・・・誠に難渋なる山坂なり。」

 

 ちなみに、写真の右下に見える約100m置きに設置されている木の道標は、「20/63」と書かれています。

 

 分母がその峠越え、山越えの長さを示しているのですが、これまで越えてきた峠の分母は、いずれも16から18だったことから、63という数字も、この八鬼山が最大の難所であることを示しています。

 

 カーブで呼吸を整えつつ、七曲がりを無心で登っていくと、13分ほどで七曲がりをクリアすることができました。

 

 実は、「難所・七曲がり(上) 280m」という看板の意味が分からなくて、280m上に、七曲がりのスタート地点があると誤解していたので、「まだ先に、もっときつい上り坂があるんだぁ。」と思って登っていたため、気持ち的に楽だったからかもしれません。

 

 途中で、何度もカーブが続き、「七曲がり」の名に相応しい地形だったので、途中で薄々は気付いていたのですが、私の想い違いに確信をもったのは、七曲がりを登り切ったところにあった道標でした。

 

(八鬼山/七曲り上)

 

 道標には、「難所・七曲がり(下) 280m」と書いてあったのです。

 つまり、最初にあった「難所・七曲がり(上)280m」というのは、「ここが七曲がりのスタートで、280m先に七曲がりの終点がある。」という意味だったのです。

 

 七曲がりを登り切ったところで、右手を見ると、尾鷲の街並みが見えました。

 

(八鬼山/七曲り上からの眺望)

 

 七曲がりを登り切ると、しばらく平坦な道が続きます。

 

(八鬼山/峠道)

 

 谷川の手前に、桜茶屋一里塚がありました。

 

(八鬼山/桜茶屋一里塚)

 

 一里塚は、織田信長豊臣秀吉が、三十六町(三十六丁。約4km)を一里として、塚を築かせたのが始まりとされ、慶長9年(1604年)に、江戸幕府初代将軍徳川家康が、諸国に一里塚を築かせ始めます。

 

 尾鷲地方の一里塚は、江戸時代中期の正徳2年(1712年)に公儀巡見使が通行する際に整備したと記録されているのですが、尾鷲地方では、片方の塚の上に、もう片方には山桜を植えたそうです。

 

 

 桜茶屋一里塚から10分ちょっと歩くと、九木峠が有り、そこからさらに少し歩くと、荒神堂があります。

 

(八鬼山/荒神堂)

 

 荒神堂の中には、三宝荒神立像が安置されているそうです。

 荒神堂のすぐ先に
荒神茶屋跡があり、その先の石段を登ると、分岐があります。

 右手が
明治道で、左手が江戸道となっています。

 明治道は、明治時代になって整備された道で、基本的に江戸道よりも明治道の方が道幅が広く、傾斜も緩やかなので、明治道を行こうかとも思ったのですが、『
熊野古道伊勢路図絵』によると、江戸道推奨ルートになっていました。

 しかも、分岐の少し先にある
桜の森広場は、「絶景」と書かれていました。

 そうであれば、
江戸道を行かない手はありません。

 

 そのまま江戸道に入り、桜の森広場に行くと、展望台がありました。

 展望台に近づくと、何と、K井さんが展望台で写真を撮っていました。

 

 私も早速展望台に上がってみました。

 

(八鬼山/桜の森広場からの眺望)

 

 正面に見えるのが、九鬼水軍発祥の地と言われる九鬼町の街並み、北(向かって左手)に見えるのが志摩半島、南(向かって右手)に見えるのが紀伊の山並です。

 

 八鬼山登山口から桜の森広場まで約2時間の登山で、本当にヘトヘトでしたが、熊野古道伊勢路の中でも屈指といわれるこの景色を見て、疲れも一気に吹き飛びましたニコニコ

 

 

 展望台で景色を眺めながら休憩した私は、道標に従って、江戸道を下り始めました。

 

(八鬼山/江戸道)

 

 江戸道は、明治道に比べ、古道感があって、趣がある道が多いです。

 

(八鬼山/江戸道)

 

 ただ、明治道に比べ、急勾配な場所が多いので、下りが苦手な上に、足を痛めている私には、かなりの苦行で、ここで一気にペースが落ちました。

 

 せっかく桜の森広場K井さんに追いついたのに、八鬼山の下りで、またK井さんとの差が広がってしまいました。

 

 桜の森広場から50分ほど歩いたところに、十五郎茶屋跡がありました。

 

(八鬼山/十五郎茶屋跡案内板)

 

 この十五郎茶屋跡からの下りが、かなり急でした。

 

 十五郎茶屋跡から、さらに20分程下ると、明治道と合流し、その先に籠立場がありました。

 

(八鬼山/籠立場)

 

 三木里側から尾鷲に向けて八鬼山を登る場合、この籠立場から先の江戸道が急勾配となるため、紀伊藩主幕府巡見使が乗っている籠を止めて小休止した場所だそうです。

 

 籠立場を過ぎると、橋があります。

 

(八鬼山/三木里登口の先の橋)

 

  橋を渡ると舗装された車道になり、それをしばらく歩くと、二股の分岐があり、右手の道に入ると、石畳の道になります。

 

(八鬼山/石畳)

 

 石畳の道に入ってすぐのところに、名柄一里塚があります。

 

(八鬼山/名柄一里塚)

 

 名柄一里塚の所には、トイレがあり、その近くに、「新宮まで54km」と書かれた道標がありました。

 

(八鬼山/道標)

 

  この時点で10時20分過ぎだったのですが、翌日までに54kmを歩いて、本当に新宮市の熊野速玉大社まで到達できるのか、一抹の不安が過ぎります。

 

 平坦な道の54kmなら、難なく歩けるのですが、ここは熊野古道伊勢路。まだいくつものを越えていかなければならないことを考えると、熊野古道伊勢路の54kmは、決して簡単な道のりではないのですあせる

 

 名柄一里塚から、草の生えた道になります。

 

(名柄一里塚の先)

 

 名柄一里塚から10分ほど歩くと、国道311号に出ます。 

 

(八鬼山/道標)

 

 国道311号に出ると、眼前に三木里ビーチが広がっていました。

 

(三木里ビーチ)

 

 尾鷲の熊野古道センターを出て、三木里ビーチに着くまでの4時間30分ほどの道のりで、ミネラルウォーターで水分補給をしていたものの、その間、自動販売機がなかったので、三木里ビーチの近くの自動販売機でコーラを買って、三木里ビーチのベンチで少し休憩をしました。

 

 西国一の難所と謳われた八鬼山を越えた後のコーラは、格別の美味しさでした。

 

◇次回予告

 

 三木里ビーチで休憩をした私は、次の峠である三木峠へと向かったのですが、次回は、そこからお話しをさせていただきます。

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ     ペタしてね       
にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑫(三木里ビーチ⇒羽後峠)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行四日目(平成28年5月2日(月))、八鬼山を越えて三木里ビーチへと着き、自動販売機でコーラを買って休憩をした私は、三木峠へと向かいました。

 

◇ヨコネ道

 

 沓川橋を渡って、左折し、町中を抜け、国道311号を突っ切って、三木里小学校などがある町中を抜け、再び国道311号に戻ると、賀田湾に出ました。

 

(賀田湾)

 

 ここから八十川橋を渡り、国道311号を歩いていくと、「三木・羽後峠 ヨコネ道」と書かれた道標があるので、それに従って、ヨコネ道に入りました。

 

(三木・羽後峠道標)

 

 ヨコネ道に入ると、私の好きな土の山道でした。

 

(ヨコネ道)

 

 ヨコネ道は、賀田湾沿いを走る国道311号と並行して、国道311号を見下ろすように通っているなだらかな山道で、眺めも良く、歩いていて気持ちの良い道でしたニコニコ

 

(ヨコネ道からの眺望)

 

 このヨコネ道は、実は地元の方々のおかげで、近年になって発見されて整備された道だそうです。

 熊野古道は、このような地元の方々や研究者などの努力で新たに発見されることも少なくないので、そのような方々の努力には、本当に脱帽です。

 

 ヨコネ道は短く、10分ちょっと歩くと、再び国道311号に合流します。

 

◇三木峠

 

 国道311号に合流して、数分歩くと、熊野古道伊勢路の道標と案内板があり、「新宮まで50km」と書かれていました。

 

(三木峠/道標)

 

 まだまだ先は長いです。

 

 道標に従って三木峠に向かって峠道を登っていくと、再び賀田湾が見えます。

 

(三木峠手前からの眺望)

 

 右手の下に見えるアスファルトの道路が、国道311号です。

 

 三木峠の峠道は、苔が生えた石段になっているところもありますが、この石段は比較的歩きやすい石段でした。

 

(三木峠/峠道)

 

 三木峠の入口から15分弱で、三木峠に着きます。

 

(三木峠)

 

 熊野古道伊勢路の峠に100m置きに設置された木の道標に、例えば八鬼山だと「34/63」、「40/63」などと書かれているのですが、100m置きに設置され、歩いていくと、分子の数字が1つずつ大きくなっていきます。

 そのため、この分母(八鬼山だと63)が、その峠の長さを表しているわけですが、三木峠の分母は、でした。

 

 この後、この日の目的地である熊野市駅まで、三木峠を含めて7つほどの峠があるので、分母の小さい峠があると、ちょっとホッとします。

 

 

◇羽後峠

 

 三木峠を越え、急な下り坂を下りると、農道にぶつかり、農道を突っ切ると、「羽後峠登り口」の道標と熊野古道伊勢路の幟があります。

 

(三木峠/羽後峠登り口道標)

 

 ちなみに、ここはまだ羽後峠登り口ではありません。

 

 道標に従って、古道に入り、民家の間を抜けていきます。

 

 

(三木峠/フリー新聞地バス停付近の民家)

 

 

 民家の間を通り抜けると、再び国道311号に合流するので、国道311号沿いを歩くと、すぐにまた「羽後峠登り口」の道標があります。

 

(羽後峠登り口道標)

 

 ちなみに、ここもまだ羽後峠登り口ではありません。

 

 この道標に従ってコンクリートの階段を上っていきます。 

 

(羽後峠/羽後峠登り口道標付近)

 

 コンクリートの階段を上っていくと、立派な猪垣があります。 

 

(羽後峠/猪垣)

 

 奇麗な猪垣を眺めながら平坦な道を歩いていくと、山の神がありました。 

 

(羽後峠/山の神)

 

 山の神からまたしばらく猪垣が続き、やっと100m置きにある「羽後峠 1/9」と書かれた道標があり、その先の案内板の手前にある「羽後峠登り口」という道標があります。

 

 ここが、本当の羽後峠登り口です。

 

 そこから、少し上っていくと、すぐに羽後峠に着きました。

 

(羽後峠)

 

 左下に100m置きにある木の道標があるのですが、そこには「2/9」と書かれています。

 

 羽後峠登り口がなかなか始まらず、やっと羽後峠登り口に着いたと思ったら、たった100mちょっとで羽後峠に着いてしまったわけです。

 

 羽後峠を越えると、石畳になっていました。

 

(羽後峠/石畳)

 

 石畳の道を歩いていくと、水場もありました。

 

(羽後峠/水場)

 

 水道管には、白い文字で、「のめる」と書いてあります。

 

 水場を過ぎると、また奇麗な猪垣が続いています。

 

(羽後峠/峠道)

 

 さらに峠道を歩いていくと、秋葉山と書かれた杭が立っていました。

 

(羽後峠/秋葉山)

 

 杭の脇には「火伏せの神」と書かれています。

 秋葉山は、私の実家である静岡県浜松市天竜区にある山で、火防(ひぶせ)の神である秋葉大権現の後身、秋葉山本宮秋葉神社が鎮座しています。

 秋葉山はこの秋葉神社の俗称でもあるのですが、この秋葉山信仰は、室町時代から江戸時代にかけて全国的に広まったもので、この羽後峠でも、火伏せ(火防せ)への願いから祀られたようです。

 

 秋葉原の杭から2分ほどあるくと、賀田村の案内板があり、近くにベンチが設置されていました。

 

 

(羽後峠/峠道)

 

 このベンチで少し休憩し、さらに道を進んでいくと、「賀田羽根の五輪塔」の道標があり、その先に賀田羽根の五輪塔がありました。

 

(賀田羽根の五輪塔道標)

 

(賀田羽根の五輪塔)

 

 ちなみに、五輪塔は、上から宝珠の空輪、請花の風輪、笠石の火輪、塔身の水輪、基礎の地輪からなり、「空・風・火・水・地」の五大を宇宙の構成要素と考える仏教思想に基づいて、平安時代に創始され、鎌倉時代以降は、先亡者の供養や墓石として建てられたそうです。

 

 この賀田羽根の五輪塔は、江戸時代初期の寛永18年(1641年)に建てられたものです。

 

 賀田羽根の五輪塔を過ぎると、少しして舗装道に出て、階段を下りていくと、国道311号に出ます。

 

 地図によると、古川橋の手前に公園があったので、近くの自動販売機でジュースを買って、休憩をしました。

 

 ヨコネ道、三木峠、羽後峠は、急なアップダウンがほとんどなかったので、かなりのハイペースで歩けたのですが、八鬼山の下りでかなりペースダウンしたので、K井さんには全く追いつく気配すらありませんでしたので、ジュースを飲みほしたところで、すぐに次の目的地に向けて出発し、古川橋を渡りました。

 

(古川橋からの眺望)

 

 古川橋を渡って賀田湾を左手に見ながら歩いていくと、賀田駅に着きました。

 

◇次回予告

 

 賀田駅を過ぎて、私は次のスポットである曽根次郎坂太郎坂へと向かったのですが、この曽根次郎坂太郎坂が、私にとってかなりの難所でした。

 

 次回は、その曽根次郎坂太郎坂のお話からさせていただきます。

 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ     ペタしてね
にほんブログ村

婆娑羅日記Vol.27~熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行記in2016⑬(羽後峠⇒二木島駅)

$
0
0

 熊野古道伊勢路&大嶺北奥駈道旅行四日目(平成28年5月2日(月))、賀田駅まで来た私は、曽根次郎坂太郎坂へと向かいました。

 

◇曽根次郎坂太郎坂

 

 賀田駅からが賀田湾沿いに歩いていくと、飛鳥神社があります。

 

(飛鳥神社)

 

 この飛鳥神社から数分で、甫母峠の道標のあるところに着きます。

 

(甫母峠道標)

 

 甫母峠道標からさらに2分ほどで、曽根弾正墓所に着きます。

 

(曽根弾正墓所道標)

 

 室町時代、治安の悪化に困り果てた村人が、近江から招いた六角家の庶家の佐々木右衛門が、名を曽根弾正と改め、この地を治めました。

 

 曽根弾正は、最初は伊勢国司北畠家に仕えましたが、北畠家が織田信長によって滅ぼされると、曽根弾正と嫡男曽根孫太郎は新宮を拠点に勢力を拡げていた堀内氏善に従って、三木城を攻めました。

 

 慶長2年(1597年)の慶長の役で、堀内氏善に従い、曽根孫太郎の嫡男曽根新吉曽根弾正と称して参陣しましたが、討死してしまいます。

 

 その後、次男の曽根久三郎が家督を継ぎますが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、主君堀内氏善が西軍に与したため、改易となり、曽根家も没落してしまいました。

 

 曽根は、その曽根家と所縁のある地なのです。

 

 曽根弾正墓所の道標を過ぎると、曽根次郎坂太郎坂の案内板があり、上り坂が始まります。

 

 上記の曽根家の歴史を見ると、「どこにも曽根次郎、曽根太郎が出て来ない」と不思議に思われた方もいらっしゃるかと思います。

 また、「何故『太郎坂次郎坂』ではなく、『次郎坂太郎坂』なんだ。」と疑問に思われた方もいらっしゃるかと思います。

 実は、この曽根次郎坂太郎坂は、紀伊国と志摩国の国境にあったため、「自領(じりょう)」、「他領(たりょう)」が訛って、「次郎」、「太郎」となったと言われています
ひらめき電球

 従って、次郎と太郎は、人名ではないそうですあせる

 

 100m置きに設置されている木の道標の1つ目には、「01/39」と書かれていました。 

 

(曽根次郎太郎坂道標)

 

 これまで歩いてきた峠の中では、距離の長い峠です。

 

 15分ほど上ったところに、行き倒れ巡礼供養碑がありました。

 

(曽根次郎坂太郎坂/行き倒れ巡礼供養碑案内板)

 

 行き倒れ巡礼供養碑案内板によると、西国三十三カ所巡礼の旅に出る人は心に悩みのある人や身体に病を持つ人が多かったそうです。

 

 旅人は、一生の念願である伊勢参宮を無事に終え、田丸で巡礼姿に改め、熊野参詣道伊勢路を南下し、曽根浦を通行して、第一番札所の那智山青岸渡寺を目指したのですが、この難所の曽根次郎坂太郎坂で急に容態が悪くなる人もいたそうです。

 

 村人たちは医者にも診せて看病し、不幸にして死亡すれば、国許へ訃報を出し、地元の負担で手厚く仮葬して、初七日の供養もしたそうです。

 

 ここにある行き倒れ巡礼供養碑は、文政13年(1830年)寅4月、ここで倒れた武州足立郡中之田村(現・埼玉県さいたま市)の人の物だそうです。

 

 熊野古道伊勢路には、行き倒れ供養碑等が何ヶ所かあったのですが、この曽根次郎坂太郎坂は、本当に難所で、行き倒れになる人が出るのも頷けました。

 

 曽根次郎坂太郎坂は、八鬼山の七曲がりなどに比べれば、それほど急な坂ではないのですが、この日は、尾鷲の熊野古道センターから西国最大の難所と謳われた八鬼山三木峠羽後峠を越え、既に8時間30分近く歩いていたので、曽根次郎坂太郎坂を登り始め、汗だくになり、喉もカラカラになりました。

 

 そこで、行き倒れ供養碑の前でザックを降ろし、休憩をしたのですが、だいぶ疲れていたのか、その後、なかなか立ち上がることができず、10分以上休憩してしまいました。

 

 それからザックを背負い、再び歩き始めました。

 

 しかし、朝5時30分に朝食を食べて以来、飴とカロリーメイト以外の食べ物を口にしていなかったので、スタミナが切れたのか、少し歩いては立ち止まるという状態が少し続きました。

 そのような状態で、テント泊用のテントマットシュラフ(寝袋)などを詰め込んだザックは、殺人的な重さですガーン

 

 そうこうしながら曽根次郎坂太郎坂を上っていくと、甫母峠に着きました。 

 

(甫母峠) 

 

 甫母峠には、休憩所があり、そのお向かいに甫母峠の地蔵がありました。 

 

(甫母峠の地蔵)

 

 その近くにも、地蔵がありました。

 

(甫母峠/地蔵)

 

 甫母峠の所に、100m置きに設置されている木の道標があり、「13/39」と書かれていました。

 

 甫母峠から10分ほどで、楯見ヶ丘に着きます。

 

(盾見ヶ丘)

 

 楯見ヶ丘に立つと、木々の間から楯ヶ崎が見えます。

 

(盾見ヶ丘からの眺望)

 

 この楯見ヶ丘から、さらに峠道が続くのですが、ここから、100m置きにある設置されている木の道標はあるものの、行き先を示す道標が全くなくなりました。

 

 そして、甫母峠を越えたのに、また上り坂が始まるなどして、私は、先行きの見えない不安の中で歩くことになりました。

 この先、どのくらいの上りがあり、どのくらいの下りがあるのか、わかっていればこそ、ペース配分なども考えて、歩き続けることができるのですが、先行きの見えない不安は、気力を徐々に奪っていきます

 

 楯見ヶ丘から20分ほど歩くと、「30/39」と書かれた道標がありました。

 

(曽根次郎坂太郎坂/道標)

 

 この道標は、約100m置きに設置されているので、残り約900mで曽根次郎坂太郎坂は終わるはずなので、少し先が見えてきた、と思ったのですが、その矢先に、また上り坂が始まりますあせる

 

(曽根次郎坂太郎坂/峠道)

 

 上りがあれば、その後には必ず下りがあるわけなので、下りの苦手な私にとって、上り坂は、その後に控えている下り坂のイントロダクションなわけですあせる

 

(曽根次郎坂太郎坂/峠道)

 

 足の甲と膝の痛みに耐えながら、曽根次郎坂太郎坂のおそらく最後と思われる下り道を下り続けると、立派な猪垣があり、近くに猪垣記念碑猪垣案内板もありました。

(曽根次郎坂太郎坂/猪垣案内板)

 

 猪垣記念碑によると、この辺りの猪垣は、寛保元年(1742年)3月上旬から翌年2月までの1年がかりで築かれたものだそうです。

 

(曽根次郎坂太郎坂/猪垣)

 

 この猪垣を過ぎると、急な下りの階段が有り、国道311号へと出ます。

 

◇二木島駅

 

 

(国道311号)

 

 国道311号を渡ると、道標があり、それに従って急な階段を上りました。

 

(国道311号)

 

 元々熊野古道伊勢路が通っていたところに、国道311号を建設したため、熊野古道伊勢路が国道311号によって分断されてしまったようです。

 

 熊野古道では、このように道路建設で分断されてしまった部分で、急な階段を上り下りして、熊野古道の本来のルートに戻るようなことがしばしばあります。

 

 国道311号から急な階段を上り、道なりに歩くと、今度は緩やかな下り坂があり、逢川にぶつかります。

 逢川沿いに歩き、新逢川橋を渡ると、トイレと休憩所があり、その先に二木島駅がありました。

  

 私は、喉が渇いていたので、自動販売機でジュースを買い、休憩所で休憩することにしました。

 

 私は、朝食を食べて以来、飴とカロリーメイトしか食べていなかったため、曽根次郎坂太郎坂の途中でエネルギーが切れ、さらに、行き先を示す道標がない不安の中でアップダウンが続き、気持ちも折れかけていました。

 そして、二木島に着いた時点で、既に16時45分でした。


 地図によると、この後、この日の宿泊地である熊野市駅まで、12kmの道のりがあります。

 12kmという距離は、平坦な道でも徒歩で2時間30分はかかるのですが、この先、熊野市駅まで二木島峠逢神坂峠(おうかみざかとうげ)、波田須の道大吹峠松本峠を越えていかなければなりませんので、最低でも4時間はかかる道のりです。

 

 二木島で16時45分ということは、熊野市駅に着くのは21時前後になる計算です。

 

 いくら5月とはいえ、峠道では、日没よりも前に暗くなり始めるので、ヘッドライトなどを使わずに歩けるのは、18時30分くらいまでです。

 

 そうすると、この後、日没前に越えられるのは、二木島峠逢神坂峠くらいまで。

 

 そのように考えて、再度地図を見たのですが、二木島峠逢神坂峠を越え、JR紀勢本線の新鹿駅(あたしかえき)までのコースタイムは約1時間50分

 

 足の甲や膝を痛めている私の足で、しかも、エネルギーが切れ始めていて、ペースが一気に落ちている状態では、おそらく2時間では辿り着けません。

 

 しかも、JR紀勢本線は、2時間に1本程度しかないので、新鹿駅に着くタイミングによっては、電車に乗るまで2時間近く待つことになります。

 

 他方、翌日の目的地は新宮市の熊野速玉大社で、そこに至るまで、その多くは街中の一般道を歩くコースになっています。

 つまり、翌日は、どんなに遅い時間でも歩けるわけです。

 

 そのように考え、私は、この日は二木島駅から電車でこの日の宿泊地である熊野市駅まで行き、翌朝、始発で二木島駅まで戻って、二木島駅からまた歩き始めることにしました。

 

 正直、この日の目的地に辿り着けなかったのは悔しかったのですが、この日は曽根次郎坂太郎坂で完全に心が折れてしまい、そこから先に歩く気力は残っていなかったので、電車に乗る決断をしてから、気持ちがとても楽になりました

 

 二木島駅で40分ほど待ち、電車に乗り、熊野市駅へと向かいました。

 

 その間、K井さんに、二木島駅から電車に乗り、この日に宿泊するホテルへ向かう旨のメッセージを送りました。

 

 二木島駅から熊野市駅まで、電車に揺られること、たったの27分

 

 途中で、K井さんから返信があり、これから松本峠を登り始めるとのことでした。

 

◇みはらし亭

 

 熊野市駅で降りた私は、この日に宿泊する『みはらし亭』でチェックインを済ませ、近くのスーパーマーケットに夕食とお酒を買いに行きました。

 ホテルに戻って、しばらくゆっくりしていると、K井さんがホテルに着きました。

 K井さんも、近くのスーパーマーケットに夕食とお酒を買いに行き、ホテルの部屋で一緒に食事を摂り、次の日に備えて、この日は早めに就寝しました。

 

◇次回予告

 

 翌朝、熊野市駅から二木島駅に向かう始発電車に間に合うように5時に起床した私は、K井さんよりも先にホテルを出たのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「日本史」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓             ↓↓↓

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ   ペタしてね
にほんブログ村

コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー④(トラブルメーカーへの心構え)

$
0
0

 コラボ企画の相方であるリコラさんからバトンを引き継いで、前2回にわたって、リコラさんの記事をたたき台に、トラブルメーカーについて、お話をさせていただきましたが、今回、トラブルメーカーの問題性と、トラブルメーカーに対する心構えを述べさせていただき、再びリコラさんにバトンをお渡ししたいと思います。

 

◇トラブルメーカーの問題性

 

 私が以前書いた『沈思黙考Vol.12〜トラブルメーカー』の中で、私は、トラブルメーカーの特徴を抽出するに際し、「義務を履行しない“くせに”、権利を主張する」、「責任を果たさない“くせに”、自由を求める。」というような表現を多用しています。

 

 そこに私のトラブルメーカーに対する負の感情が示されているので、それについて、お話しさせていただきます。

 

 私は、『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』で、トラブルメーカーの特徴を挙げ、そこからさらにトラブルメーカーの本質的要素として、以下の3つの要素を抽出しました。

 

 (a)精神的な弱さ
 
 (b)常に楽な道を選ぶ行動原理
 
 (c)理性の欠如

 

 そして、人格障害(パーソナリティー障害)との類似性を指摘しました。

 

 このトラブルメーカーの本質的要素の位置づけを分析すると、(a)「精神的な弱さ」は、トラブルメーカーの多くの特徴の原因となっているもので、その(a)「精神的な弱さ」を克服しなければ、それを原因とする多くの特徴が改善されず、トラブルメーカーたる資質が軽減されることにはならないという関係にあると考えています。

 

 また、(c)「理性の欠如」も、トラブルメーカーの多くの特徴の原因となっているものと考えています。

 

 これに対し、(b)「常に楽な道を選ぶ行動原理」は、どちらかといえば、他の特徴の結果として生じる現象と位置づけられます。

 

 そうすると、トラブルメーカーとなる人の原因となる要素は、(a)「精神的な弱さ」と(c)「理性の欠如」となります。

 

 この2つの要素のうち、とりわけ(a)「精神的な弱さ」は、家庭環境などによって、後天的に発現するものであることが多いので、本人の責めに帰すべきものとは必ずしもいえない場合も少なくありません。

 

 したがって、トラブルメーカーの原因となった何らかの事象について、私は責めようとは思っていません。

 

 それにもかかわらず、私が、「くせに」という表現を多用したのは、そのトラブルメーカーの原因と、トラブルメーカーの問題性は、分けて考えなければならないと考えており、そして、そのトラブルメーカーの問題性は、トラブルメーカーとなってしまった人自身が、自分でコントロールしようと思えばできるにもかかわらず、それをしていないことによって生じていると考えているからです。

 

 トラブルメーカーの特徴としては、例えば、私は、②「義務・責任を一切果たさず、権利のみを主張する」こと、③「自分の非を正当化し、相手の非のみを殊更に責める」ことを挙げました。

 

 この2つの特徴は、トラブルメーカーの属性、性質自体ではなく、他の属性的な特徴によって発現する結果の事象といえるもので、かつ、それによってトラブルそのものの原因となっているものです。

 

 例えば、信号無視をした張本人A男が、他に信号無視をした人B男を徹底的に責め、B男から「あなたには言われたくない」と言われたところ、A男がB男に対し、「俺はルールを守らなくても良いけど、お前はルールを守れ。」と言われたら、ほとんどの人は怒りますよねはてなマーク

 

 私は、他者の非を責めて良いのは、非難している内容を、自分自身がしていないことが大前提となっていると考えています。

 

 また、権利を行使して相手に義務の履行を求めて良いのは、それに伴う義務を自分自身が履行していることが大前提になっていると考えています。

 

 そのようなやるべきことをやらず、他者にだけ義務の履行を強要するような人は、必ずトラブルとなります。

 

 トラブルメーカーの特徴の1番目に、私は①「過剰な被害者意識」を挙げましたが、この被害者意識が強い人は、被害者であることを最大限に利用して、自分のことを特別扱いすること、自分を大切に扱うこと、自分を正しいと評価することを求めます。

 

 そして、特別扱いの内容として、義務を免除し、権利を絶対的に保障すること求めることが多分にあります。

 

 このような点が、トラブルメーカーの起こすトラブルの原因となっている部分だと私は考えています。

 

 

 ところで、私は、「トラブルメーカー」といえば、それだけで問題のある人間であることが前提となっているように思われるので、その問題性を明示的に指摘してきませんでした。

 

 それにつき、リコラさんが、『”コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー  被害者意識への向き合い方』の中で、被害者意識が過剰な人や、自己愛性パーソナリティー障害の人が、「人からエネルギーを奪おうとするから問題となる」と述べています。

 

 これは、まさにトラブルメーカーの問題性とも一致します。

 

 トラブルメーカーは、まさに、周囲の人々から、“無駄に”エネルギーを奪うから、問題なのです。

 

 

◇トラブルメーカーへの心構え

 

 では、そのようなトラブルメーカーに対し、どのように対処すれば良いのでしょかはてなマーク

 

 前回、そもそもトラブルメーカーに対し、外在的に、トラブルメーカーを改善させるような何らかのアプローチをすることが可能か否かという趣旨の問題提起をさせていただきました。

 

 これについては、リコラさんにバトンをお渡しし、リコラさんのご意見を伺ってから、再びバトンが戻ってきた際に、私見は述べさせていただきますので、今回は、トラブルメーカーの対する心構えについて、私見を述べたいと思います。

 

 リコラさんは、私と一緒に訪れた川越の喜多院の本堂にあった「心外無法」(しんげむほう)という書にヒントを得て、トラブルメーカーに対する心構えを論じています。

 

 心外無法というのは、「心の外に法は無い」、つまり、「善悪、美醜などを決めているのは、全て私たち自身の心である」ということを意味する禅語です。

 

 

 リコラさんの論理展開は、『”コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー トラブルメーカーへの心構え』をじっくりお読みいただくとして、私なりの解釈でかいつまんでいえば、「トラブルメーカーに遭遇してしまったときに、怒りなどの負の感情を抱くのではなく、トラブルメーカーとなってしまった背景にも想いを馳せ、トラブルメーカーと遭遇して困っている自分自身の成長の糧を与えてくれたことに、感謝の気持ちを抱くことが肝要」であると論じていると解釈しました。

 

 私が『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』で、トラブルメーカーの特徴を挙げ、本質的要素を分析したのは、トラブルメーカーの特徴を知ることで、トラブルに巻き込まれないようにする知恵を身につけることと、自分自身がトラブルメーカーにならないように自戒を込めてであると述べました。

 

 もし、トラブルメーカーに遭遇し、怒りの感情をそのまま爆発させてしまえば、自分自身もトラブルメーカーになってしまうわけです。

 

 その意味で、リコラさんの論じた心構えは、自分自信がトラブルメーカーにならないための対処法として、非常に的を得たものであると思いました。

 

 

◇心外無法

 

 ところで、リコラさんは、『心外無法』という禅語を、的確に理解し、論を展開されていましたが、この『心外無法』という言葉は、誤解されかねない言葉でもあるので、その点を指摘させていただきます。

 

 『心外無法』は、善悪、美醜などを決めているのは、全て私たち自身の心であるという意味の禅語なので、もしかしたら、「トラブルメーカーは実はトラブルメーカーではない。そのように思ってしまう自分が、悪しき心を持っているから、そのように見えてしまうのだ。自分が間違っていたのだ。」と考えることを勧めているように誤解される方もいるかもしれませんが、これは違います。

 

 

 この『心外無法』という言葉は、『心頭滅却すれば、火もまた涼し』という言葉と、似た一面があると思います。

 

 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』とは、自分の心の持ちようで、苦しみも苦しみでなくなることを表しています。

  

 あくまで、心の持ちようで、感じ方が変わると言っているだけで、火が水になるわけではありませんし、火がなくなるわけでもありません

 

 同じように、自分がトラブルメーカーの問題性を問題と感じなくなっても、トラブルメーカーの客観的な問題性が消えてなくなるわけではなく、トラブルメーカーが、自分以外の第三者に迷惑をかけ続ける可能性も消えません。

 

 したがって、リコラさんの掲げた対処法は、あくまで、トラブルメーカーに遭遇した時に、心の持ちようで、トラブルメーカーに接する際の気持ちの負担を軽くすることに意味があると私は思います。

 

 

 また、『心外無法』を、あるがままを全て受け入れるという意味に捉えてしまうと、それもまた違うと私は考えます。

 

 前述のように、トラブルメーカーの問題性は、客観的には残ります。

 

 そして、そのあるがままを受け入れても、周りの人々がそれによって息苦しさを味わう可能性が残るのは同じです。

  ちなみに、私は、そのような場合は、やはり正直に生きている周りの人たちを助けたいと思います。

 

 そのような意味で、リコラさんは、『心外無法』を的確に理解した上で、あるべき解決の方向性として、非常にしっくりくるものを示されたと私は思います。

 

 

◇次回予告

 

 ここで、再びリコラさんにバトンをお返しし、リコラさんに、さらにトラブルメーカーについて、論を展開していただきたいと思います。

 

 そして、再び、私にバトンが戻って来た際に、リコラさんの記事をご紹介しつつ、私の論を展開させていただきたいと思います。


 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 Facebookユーザーの方は、Facebookの「いいね」を押していただけると嬉しいです
 また、『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「弁護士」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓            ↓↓↓ 

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ    ペタしてね
にほんブログ村

コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー⑤(自己愛性パーソナリティ≠自己愛性人格障害)

$
0
0

  前回もお話しさせていただきましたとおり、家族問題カウンセラーリコラさん(http://ameblo.jp/re-cora/)とのコラボ企画第5弾『トラブルメーカー』は、リレー形式となっております。
 
 私が、『
コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー①(序章)』でリコラさんにバトンを渡し、私が以前書いた『沈思黙考Vol.12~トラブルメーカー』シリーズをベースに、リコラさんが記事をアップしてくださいました。

 

 そして、私にバトンが戻って来てから、『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー②(トラブルメーカーの本質)』、『コラボ企画vol.5~トラブルメーカー③(解決の方向性)』、『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー④(トラブルメーカーへの心構え)』をアップし、再びリコラさんにバトンをお渡ししました。

 

 私からのバトンを受けて、アップされたのが下記の記事です。

 

≪リコラさんの記事≫

 

6『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカーが自分と向き合うきっかけ』

 (http://ameblo.jp/re-cora/entry-12287091173.html

 

7『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー 予防的対策』

 (http://ameblo.jp/re-cora/entry-12287094130.html

 

(※6乃至7の数字は、私が便宜上、バトンタッチ前のリコラさんの記事からの続き番でナンバリングしたものです。)

 

 上記6乃至7の記事を経て、再び私にバトンが戻ってきましたので、今回は、それを引き継いで、さらにトラブルメーカーについて、お話をさせていただきたいと思います。

 

◇自己愛性パーソナリティ≠自己愛性人格障害

 

 6コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー 予防的対策』の中で、リコラさんは、「自己愛性パーソナリティ」と「自己愛性人格障害」の違いについて言及しております。

 

 この点、私は、「パーソナリティー障害」と「人格障害」は同義と考えています。

 

 これについては、両者が別物だと論じている識者もいるのですが、日本精神神経学会厚生労働省は、人格否定的な偏見的なニュアンスが強いことから、名称の変更を行ったとされており、両者が別物であるとは考えておりません。

 

 これは、「精神分裂病」を「統合失調症」に、「痴呆症」を「認知症」にそれぞれ変更したのと同じ趣旨です。

 

 この名称変更については、私は異論があるので、それは後ほど述べるとして、パーソナリティ障害人格障害同義で、単なる名称変更に過ぎないというのが通説なのですが、リコラさんの説明をよく見ると、「自己愛性パーソナリティ」と「自己愛性人格障害」の違いとなっていて、前者には、「障害」の単語が含まれていません。

 

 そこに何となく違和感があったのですが、「自己愛性パーソナリティ」と「自己愛性パーソナリティ障害」の区別ではなかったため、両者の区別に言及した意図がいまいち判然とせず、リコラさんに質問をしたところ、実は、その「障害」が脱落していたことに、一番の意味があったということがわかりました。

 

 通説的には、「パーソナリティ障害」と「人格障害」は同義で、単なる名称変更に過ぎないとされているので、それを前提にすると、リコラさんは、「自己愛性パーソナリティ」と「自己愛性パーソナリティ障害」の違いとするか、「自己愛性人格」と「自己愛性人格障害」の違いとして説明した方が、意図が伝わりやすかったと思います。

 

 

 「障害」という単語の有無によって、何が違うかといえば、病気のレベルに至っているか、そのレベルに至らない、個性、人格の1つのヴァージョンに過ぎないかの違いとリコラさんは捉えているようです。

 

 これは、対処法として、病気に至っている「障害」の解決策は、まずは病院に通院することになりますが、病気に至っていない単なる「人格」に過ぎない場合は、病気ではないので、通院によらず、改善する方法も、いろいろあろうかと思います。

 

 そのような意味で、リコラさんは、両者を区別されたのだと思います。

 

 それは、適切な対処法を論じる上で、程度に応じた適する方法を選択する必要があるので、その意味では、有益な区別なんだと思います。

 

 ちなみに、私の個人的意見としては、次回以降に詳述しますが、障害のレベルに至っている人も、障害のレベルに至っていないレベルに過ぎない人も、根底にあるのは、精神的な弱さであり、何らかのトラウマがスイッチとなって、様々な自己愛的な特徴を含む数々の特徴を発現させていると考えているので、根本的な解決策としては、障害のレベルに至っている人も、至っていない人も、あまり変わらないと考えています。

 

 さらに言えば、私は「トラブルメーカーの特徴と人格障害の特徴で重なる部分が多い」と論じていますが、「トラブルメーカー=人格障害(パーソナリティ障害)」という立場を取っていません。

 

 私の立場で、両者の区別を意識して説明し直すと、トラブルメーカーの特徴が、自己愛性人格障害(=自己愛性パーソナリティ障害)の特徴と重なる部分も多いし、自己愛性パーソナリティ(病気に至っていないレベルのもののこと)の特徴と重なる部分も多いという点で、トラブルメーカーは、自己愛性人格障害とも、自己愛性パーソナリティとも、類似性が認められる、という説明になるのですが、あくまで特徴が重なると述べているだけなので、理論的には、トラブルメーカーの改善方法が、自己愛性人格障害の改善方法や自己愛性パーソナリティの改善方法と必ずしも一致することにはならないのです。

 

 もちろん、類似性がある以上、結果的に流用できる点や参考にできる点があることは、否定しません。

 

  したがって、私の立場では、いずれにしろ、自己愛性人格障害(=自己愛性パーソナリティ障害)と、自己愛性パーソナリティを分けて論じる意味は、さほどないということになります。

 

 しかしながら、程度の差に応じた対処法を選択する必要性は、私もあると考えているので、その意味では、リコラさんが「障害」の単語の有無質的な区別をし、それを前提に論を進めた意味は理解しましたし、1つのアプローチ方法として、有りだと思いました。

 

 

◇言葉狩り

 

 さて、トラブルメーカーの本論からはそれるのですが、この言葉の区別について、少し掘り下げたいと思います。

 
リコラさんの区別は、「障害」の単語が付くか否かにあったので、その両者の間には実質的な違いがありますが、前述のように、「人格障害」を「パーソナリティ障害」、「痴呆症」を「認知症」、「精神分裂病」を「統合失調症」と置き換えるのは、言葉の意味の実質は変えず、言葉のイメージから、単語を変えているだけなのですが、こちらについては、私は大きな異論があります。

 

 差別的表現を抹殺する言葉狩りという現象が、一時期流行り、それは、現在でも少なからず続いていますが、差別的表現だとして、特定の表現を断罪すると、その言葉が日常生活から消えていきます。

 

 そうすることで、逆に差別が潜在化し、不健全な歪んだ差別がより深刻に継続することが、多々あると私は考えています。

 

 そもそも、人には個性が有り、違いがあるのです。

 その区別は、厳然と存在しているのに対し、その単なる区別を、差別だと断罪することで、差別が生まれるという側面もあるのです。

 

 もちろん、先に差別が存在したために、そのカテゴリーを示す単語も差別的になるという場合もありますが、そこで、差別が不当であるという認識を共有することが重要で、言葉狩りをして、差別的表現を抹殺すれば、差別がなくなるというのは、甘い幻想に過ぎないのです。

 

 単に臭いものに蓋をしただけで、臭い物は蓋の下に厳然として存在し続け、蓋で臭いがわからなくなったことで、中で黴が生えても、腐っても、気付かない不健全な状態が続き、改善の目すら摘む結果になるのです。

 

 差別が不当であるという認識が広まれば、差別的であったとされる単語、表現は、そのまま形を変えず、差別的でない単語、表現として意味が変わり、そのまま存続し続けることも、多いのです。 

 

 以上から、私は、「パーソナリティー障害」という表現をせず、あえて「人格障害」という表現を使い続けています。

 

 もちろん、例えば映像メディアで発言するような立場にある場合は、自分の信念はさておき、「パーソナリティー障害」という単語に置き換えるべきかと思いますし、立場上、当たり障りのない単語、表現を選択すべき場合もありますので、そのような意図で、単語を置き換えること自体を、私は否定しません。

 

 リコラさんは、あくまで「障害」という単語の有無で、実質的な違いも含めて区別しようとしただけなので、私が述べた言葉狩りの事案とは全く異なりますが、ちょうど今回、「人格障害」と「パーソナリティー障害」、「痴呆症」と「認知症」、「精神分裂病」と「統合失調症」が、いずれも実質的に同じなのに言葉狩り的な趣旨で、言葉を置き換えただけだということに触れたので、前から論じたかった言葉狩りが無意味であるという持論を、この場をお借りして、少しお話しさせていただきましたべーっだ!

 

 横道にそれてしまいましたが、実は、この言葉狩りの構造が、自分の弱さから目を背けて、根本的な解決を困難にさせてしまっているトラブルメーカーの深層心理と、似ていると思い、今回敢えて、横道にそれて論じさせていただきましたあせる

 

 

◇次回予告

 

 今回、少し横道にそれてしまいましたが、横道ついでに、次回も横道にそれて、精神病についてお話しさせていただきたいと思います。

 もちろん、横道にそれたと見せかけて、トラブルメーカーにつながるお話ですニコニコ

 

 


 

 

 本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m 

 

 Facebookユーザーの方は、Facebookの「いいね」を押していただけると嬉しいです
 また、『にほんブログ村』のブログランキングに参加してるので、来訪の記念に、下記の「弁護士」や「ペタ」をクリックしていただけると嬉しいです
   ↓↓↓            ↓↓↓ 

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ    ペタしてね
にほんブログ村

Viewing all 515 articles
Browse latest View live




Latest Images