今回は、いよいよリコラさんとの『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー』の完結編です。
前回私は、トラブルメーカーが、自分から変わろうと思わない限り、外在的アプローチ(他者や社会全体が、トラブルメーカーを改善させようとすること)は無力であると論じながら、それでもなお、私は外在的アプローチを模索したいと、もがいていると述べました。
そして、日本人の国民性の1つと言われる「恥の文化」における恥の概念が、その手がかりの1つになると考えていると述べました。
これについて、掘り下げていきたいと思います。
◇社会化総論
社会学で、「社会化」という概念があります。
社会化とは、人が自分の所属する社会や集団、またはこれから所属しようとしている社会や集団に共有されている社会規範、価値観、考え方、感じ方、行動パターンなどの流儀作法を学習し、獲得していくプロセスをいいます。
◇第一次的社会化と第二次的社会化
その社会化の段階には、第一次的社会化と第二次的社会化があります。
第一次的社会化は、人が生まれてから成長する過程で、社会規範、生活習慣、言語など、その社会全体に共通で、かつ基本的な事柄を学習することをいいます。
社会化の主体は、子供で、社会化を担うのは、家族や地域社会、保育園、幼稚園、学校などで、この第一次的社会化で、社会性を身につけていきます。
これに対し、第二次的社会化は、ある集団に固有の、その集団内で共通する規範や価値観、行動パターンを学習することをいいます。
これは、例えば学校であれば校風、会社であれば社風などがそれに当たります。
その集団に新規参入する者は、その集団に固有の作法や気風を身につけることで、初めて一人前のメンバーとして認められることになります。
このような意味では、トラブルメーカーは、第一次的社会化に失敗した人ということもいえます。
◇社会化と言語
かなり前の記事になりますが、私は『沈思黙考Vol.2~言語学と犯罪論の邂逅②(言語の役割)』(http://ameblo.jp/tribune-ns0731/entry-11253816546.html)の中で、言語は社会を把握するための道具で、それを投げかけられることによって、そこに織り込まれた世界観をも承継していくというお話をさせていただきました。
人は生まれてから、家族、地域社会、保育園、幼稚園、学校の中で、コミュニケーションすることで、言語を受容し、その言語に織り込まれた世界観を享受し続けています。
人は、社会に共通のルールを直接明示的に教えられなくても、社会を把握する道具である言語を受容することで、社会のルール等を知っていくので、その言語が、社会化のツールとして果たしている役割は、実は大きいと私は考えています。
例えば、両親が子供を思いやり溢れる子供に育てようと、思いやりを持つことを一生懸命教えたとしても、両親が思いやりのない人だった場合、その両親の発する言語には、それが織り込まれた言語になってしまっているため、躾(しつけ)をしているとき以外の日常会話の中で、子供は両親の思いやりのない部分を自然と学び、両親と似た価値観に育っていってしまうといった例が挙げられます。
そうすると、家族、地域社会、学校で、ある間違った価値観を持った人たちが、社会化を担う側であった場合、その間違った価値観は、世代を超えて再生産され続けていくわけです。
◇トラブルメーカーを生む土壌
では、トラブルメーカーが生まれる土壌として、何が考えられるでしょうか
これを全て論じると、膨大な論文になってしまうので、今回は、私がトラブルメーカーを生む土壌と考えているものの1つに限定して、お話ししたいと思います。
私は、行き過ぎた権利意識と、自由の履き違えが、トラブルメーカーを生む土壌の1つとなっていると考えています。
◇行き過ぎた権利意識と自由の履き違え
私は、義務教育の至る場面で、「権利は絶対である。」という概念を、教えられてきました。
この権利の絶対性を支える理論に、天賦人権説(てんぷじんけんせつ)というものがあります。
天賦人権説とは、人は生まれながらにして、自由で平等で、幸福を追求する権利があるという考え方です。
これは、絶対王政の時代に、王であっても、侵害してはならない国民の権利があるということを王に認めさせる理論として編み出されたという側面が大きいと私は考えています。
これは、絶対王政が打倒された現在でも、国家が侵害してはならない国民の権利という意味で、妥当性のある理論です。
しかし、ここで問題なのは、その人権、権利の絶対性を、対国家権力ではなく、私人(国家や公共的な立場を離れた個人のことで、自然人と法人を含む。)との間においても主張することが妥当だという誤解が通ってしまっていることです。
憲法の人権保障の規定は、国家が人権を侵害してはいけないことを国家に対して求めているもので、私人の間で、相手に対して、「私の権利は絶対だから尊重しろ」という権利まで憲法は保障していないのです。
ここで、AさんとBさんがお互いに「私の権利は絶対だから、私の権利を絶対に侵害するな。」と言い合ったら、どうなるでしょうか
AさんとBさんが主張している権利が、両立する権利なら問題はありませんが、通常は衝突します。
お互い、表現の自由を無制限で行使し合えば、いつかは罵り合いになります。
しかし、現代社会では、なかなかそうはなりません。
それは何故でしょうか
◇権利、自由の衝突のストッパー
もちろん刑法によって名誉毀損罪、侮辱罪が規定されており、民法でも、不法行為(名誉毀損)に基づく慰謝料請求が認められているというのもありますが、それだけでなく、社会においては、通常は何かしらのストッパーが働きます。
そのストッパーは、法律以外の規範、ルール、マナーなど、いろいろあり、文化の違いによって、その現れ方も違います。
日本では、恥の文化は、そのストッパーの1つとして、機能してきました。
前回述べたように、ここにおける恥は、「人様に迷惑をかけること」、「人様に嫌な思いをさせること」に対する恥を意味しています。
◇恥の文化の破壊
しかし、そのような恥の文化も、徐々に希薄になりつつあります。
恥の文化が希薄になった原因は、いくつかあると思います。
1つは、前述のように、本来は国家に対して要求すべき「権利の絶対性」が独り歩きし、私人との間においても、権利は絶対であるという間違った観念が醸成されてしまったことです。
「人様に迷惑をかけないで。」という親に対し、「私は私。」、「私の自由でしょ」という考え方は、まさにその一例です。
もう1つは、社会公共のために、多少の我慢も必要であるという考えを、個を殺して国家に滅私奉公することと同視し、忌避してきたことです。
公共心という概念が、責任を取りたくない人たち、自分だけがかわいい人たちによって、何となく雰囲気だけで、無批判に、非論理的に、軍国主義と結び付けたり、個性化の時代から逆行すると断罪したりして、抹殺されてきたのです。
このような中で、自由、権利の衝突のストッパーであった恥の文化は希薄になり、義務を履行しないで権利だけを主張する人、責任を果たさずに自由だけを主張する人が拡大再生産され、昔に比べて、そういう人たちが、何の気兼ねもなく、大手を振って我儘を言いたい放題言えるような社会になってしまったのです。
このような社会において、一人だけ、そのようなトラブルメーカーに対して、正義感を持って立ち向かい、注意をしたら、どうなるでしょうか
完全にトラブルメーカーの標的、餌食になります。
しかし、社会全体が、恥の文化を取り戻し、多くの人が、トラブルメーカーの行いに嫌悪感を示すだけでなく、社会全体でトラブルメーカーを注意する体制ができたらどうでしょうか
それはまさに、私が、「トラブルメーカーが、自分と向き合い、成長したい、トラブルメーカーから脱却したいと思うきっかけには、何があるのでしょうか」と問題提起したのに対して、リコラさんが挙げた「孤独に耐えきれなくなって、トラブルメーカーが自ら変わろうと思う」きっかけになると思いませんか
それだけでなく、社会全体が恥の文化を取り戻し、公共心が醸成されれば、義務を履行せずに権利を主張したり、責任を果たさずに自由だけを主張したりということの正当性が大幅に揺らぐので、トラブルメーカー自体が生まれにくい世の中になっていきます。
私は、トラブルメーカーを外在的に変えることは難しいと述べましたが、トラブルメーカー自体を発生させにくい社会にしていくという外在的なアプローチであれば、可能であると考えています。
そのためにこそ、トラブルメーカーではない私たちができることは、公共心を持って、ほんの少しでも、社会公共のために最善は何かを考える癖をつけることではないでしょうか
このようなことを言うと、「偽善だ。」という間違った非難をする人がいますが、全くの的外れです。
社会公共のための最善を考えて行動することで、社会が良くなり、結果的に、自分の住みやすい社会になるので、結局は自分のためになるのです。
私は、自分を犠牲にして、他者のために生きよなどと独善的な博愛を謳うつもりは全くありません。
自分が幸せになりたいから、自分の愛する人たちを幸せにしたいから、社会公共の利益を考えたいということです。
だから、偽善ではなく、むしろ、利己的だからこそ、社会公共の利益を求めているのです。
◇最後に
さて、今回、せっかく憲法の人権保障のお話をさせていただきましたので、最後に、今一度、憲法のお話をさせていただきたいと思います。
憲法の人権を保障する規定はいろいろあるのですが、私はその中で、特に憲法第12条は、重要な条項の1つだと考えています。
日本国憲法第12条は、次のように規定しています。
《憲法第12条》
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
社会全体が、この憲法の理念を共有できたら、きっと、トラブルメーカーが生まれにくい社会になっていくのではないでしょうか
◇次回予告
今回が、『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー』の完結編となりますが、次回は、リコラさんと共に、今回の『コラボ企画Vol.5~トラブルメーカー』の感想をアップさせていただきたいと思います
感想とはいえ、今回のコラボ企画を通じて、お互いいろいろ考えたこともあるかと思いますので、私もリコラさんも、必ずしも一話完結となるとは限りません。
流れに身をゆだねて、思いつくままに感想を述べたいと思います
本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(__)m
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